昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑨

2016年08月29日 | 日記

翌朝から、僕はとっちゃんに積極的に語り掛け始めた。桑原君はそ知らぬ顔を決め込んでいた。が、おっちゃんやカズさんや大沢さんは、うれしそうだった。積極的に僕を後押ししてくれた。

「とっちゃん。いつも何時頃起きてるの?」

「早いで~~」

「朝刊終わってから、何してんの?」

「いろいろやな~~」

「家のこと手伝ってんの?」

「それは、おばはんがやることやがな」

とっちゃんの取りつく島のない応答に、

「とっちゃん!ちゃんと答えてあげんかいな」

おっちゃんは笑顔を見せ、

「しょうもない子やなあ」

カズさんは呆れ顔で笑い、

「栗塚君も困るわなあ」

大沢さんは同情してくれた。

空気の変化を感じ取ったとっちゃんは、僕にこんなことを言うようになった。

「グリグリ~~。勉強してんのかいな?勉強せんとあかんで~~」

「だいぶ慣れてきたみたいやの~~、グリグリも」

そして必ず、タバコの煙を一吹きした。

 

そんな日が続いて10日以上経った頃、とっちゃんがキスチョコをポケットに帰っていくと、桑原君が僕に話しかけてきた。

「とっちゃんのことやけど。いろんなこと教えたらんとなあ。あれじゃあ、人間として恥ずかしいで。なあ、そう思わへんか?」

おっちゃんは奥に消え、カズさんはバイクの音高く勧誘活動へと向かう。

「教えるて。僕が?‥‥何を?」

「社会の仕組みとか労働することの意義とかやねえ。そうや。雇用関係の何たるか、とかについてもやねえ‥‥」

桑原君の声が少し大きくなる。

「まあまあ。僕かて“きちんと説明しろ”言われたら困ってまうようなことは置いといてやなあ‥‥」

大沢さんが、口を挟む。僕はまた議論になるのは避けたい。

「大沢さん、とっちゃんと将棋したことある、言うてはりましたよねえ?」

いい話題転換だと思った。が、何か嫌な予感もした。

「そうや!一緒に遊んであげたらええんやないの?遊びながら、人付き合いのルールをなんとなく教えてあげてやね~~。そうや!栗塚君、将棋に誘ったってよ」

大沢さんの言葉を耳にした桑原君は、飲みかけていたお茶を吹き出す。

「そうや、そうや。そうしたり、そうしたり」

桑原君の反応が気になったが、僕はとっちゃんを将棋に誘うことにした。とっちゃん、強いのだろうか。

 

「とっちゃん、将棋好き?やるか?」

翌朝、キスチョコをポケットに帰ろうとするとっちゃんに声を掛けた。

「なんや、グリグリ将棋すんのかいな?そうか~~。ええやないか。相手したるわ」

とっちゃんは即答する。

「栗塚君気い付けや~~。とっちゃん強いで~~」

おっちゃんはうれしそうに、カウンターの新聞に落としていた目を上げる。

「負け知らずやからなあ」

カズさんは出掛けて行きながら、僕に目配せする。

「ほな、行くで~~」

将棋盤と駒は二階らしく、とっちゃんはさっさと階段を上がっていく。後を追いかけようとゴム草履を脱ぎ、雑巾で足の裏を拭いていると、桑原君が傍に来た。

「僕の部屋やからな」

と、先に上がっていく。将棋盤は桑原君の部屋にあるらしい。

二階に上がり開け放たれたドアから中を覗く。とっちゃんの端座する背中が見える。そっと近付く。灰皿を横に、駒をいそいそと並べ始めている。手馴れた所作と前屈みの姿勢が、これまでに踏んできた場数の多さを思わせる。おっちゃんの言葉通り、相当に強いのかもしれない。

見かけによらない秀でた一芸が、とっちゃんにあったとしても不思議ではない。多少は腕に自信のあった中学生の夏、夕涼みの縁台に腰掛け手招きする近所のおじさんにこてんぱんにされたのを思い出す。僕を打ち負かした後の、とっちゃんの勝ち誇った顔や尖った口先から勢いよく吹き出される勝利の紫煙が目に浮かぶ。

「遊びやからな、遊び」

桑原君が耳打ちする。勝敗が決した後、僕が感じるであろう屈辱を慮ってのことに違いない。

「早う座りいな」

とっちゃんに促される。向かいに胡坐を掻く。端座のとっちゃんに見下ろされる格好だ。

「わしからでええか~?」

とっちゃんが角道を開ける。大沢さんと桑原君が足音を忍ばせてやってくる。窓辺に並んで腰掛けた二人の顔は柔らかく笑っている。

僕ととっちゃんは角を交換し、以降はほとんど定石通り。淡々と進んでいく。

とっちゃんは僕の一手毎に「そおか~~」「やるやないか~~」「そこ来るか~~」と腕を組み首を振り、時には居住まいを正して盤を睨みこむ。が、不思議だった。とっちゃんはすこぶる弱い、としか思えないのだ。そうして5~6分が経ちお互いが10手くらいを打ち終わる頃には、もう勝敗の行方は見えていた。

窓辺に並んで腰掛けている桑原君と大沢さんに、小首をかしげてみせる。と、二人も同時に小首を傾げる。顔は笑っている。みんなにすっかりからかわれていたことに、僕はやっと気付く。

大沢さんが盤面に注意を向けるよう促す。急いで振り向いたが、変化があるようには見えない。

「矢倉囲いしよう思うて間違うたわ。今日は、あかんなあ」

僕と目が合ったとっちゃんが快活に笑う。照れを装っているようにも見える。

「矢倉囲い知ってるだけでも凄いやないか~~」

小馬鹿にしているような言い方に、

「まあまあ。まだ互角やもんなあ」

と言葉を足す。とっちゃんは気にしてはいないようだ。

「それはわかってる」

不快そうに吐き捨てると、片膝を立てる。顎に手を当て、長考に入る構えだ。僕に詰めは見えている。大沢さんと桑原君を見ると、二人とも、盤面を見ていたはずの目を窓外の景色へと逸らしている。

僕は盤面に目を戻す。と、その時 “とっちゃんの強さの秘訣”を僕は、発見する。とっちゃんは自分の玉を隠してしまっていたのだ。

「とっちゃ~~ん。自分の王様隠したらあかんがな」

すぐに僕は言ったが、とっちゃんは悪びれる風情も見せない。

「せやかて、これ取られたら負けるやんか」

堂々と玉を見せ、胸のポケットにポトリと入れる。

「さあ、次はどう行こうかな~~」

とっちゃんは、盤面に大きく覆いかぶさる。その背中が陽を受けて眩しい。僕は窓辺の二人に救いを求めるように目を向けた。

 

「グリグリ~~。将棋せえへんか~~?」

それからというもの、とっちゃんは毎朝将棋をねだってきた。

「とっちゃん、自分の王様隠すんやもん。それ止めるんやったら、してあげてもええけどな」

その度に条件を出すのだが、それは無視され、

「ええやないか~~。一回だけ。一回だけやて!な!ええやないか~~」

おっちゃんの応援を意識した大声で、しつこく繰り返す。

「一回だけやで!」

遂に根負けし、苦笑いの桑原君と一緒に二階に上がる。

一旦将棋を始めると、しかし、当然一回で終わるわけもなく、三回は相手をさせられる。しかも、将棋はとっちゃんの駒を全て取り切らなければ終わらない。勝負が早々と決した後に駒を取り切る徒労感を三回も味わうだけではなく、その合間には何度かのとっちゃんの“長考”に付き合わなくてはならない。

「あかんかったなあ。二回も同じ失敗したらあかんわ。なあ、グリグリ」

三回の対局が終わると、とっちゃんはほとんど毎回同じ台詞を吐き、上機嫌でさっさと階段を下りて行く。僕はただ一人、駒を片付ける。

「僕もな、とっちゃんに勝つ方法は全部取るしかない思うんよ。面倒くさい話やけどな」

大沢さんが、とっちゃんと入れ替わりに二階に上がってきて、そんな僕に慰めの言葉を掛ける。

桑原君は、その後ろから顔を出し、

「“参った!”て、言いたくなってくるやろう?」

と毎回言うが、“君が相手をしてくれるようになって、ほんま、助かってるで”と言ってるようにしか聞こえない。僕は、とっちゃんからの将棋のおねだりを二回に一回は断ることにした。

しかし、とっちゃんの“将棋せえへんか~~?”は次第に執拗さを増していった。配達が終わった爽快感を感じる間もなく襲い掛かるおねだりに、僕は苛立つようになった。下から見上げる粘っこい目つき、絡みつくような喋り方、おかきとタバコの入り混じった臭い……。

おっちゃんとおばちゃんの「すまんな~~。我慢したってな~」という囁きが耳に届いていなかったら、我慢は限界に達していたかもしれなかった。

ところが、ある日を境にとっちゃんの“将棋せえへんか~~?”攻撃はピタッと止んでしまう。新しい興味対象が出現したからだった。6月中旬のことだった。

 

それが“おっさん”だった。

ある朝突然、とっちゃんは、“おっさん言うてたわ”を枕詞に話を始めるようになった。そして、その様子にそこにいた全員が驚かされた。とっちゃんの目は輝き、言葉は熱を帯びていたからだった。

とっちゃんが帰るやいなや、おっさんとは一体誰なのかに話題は集中した。

おっちゃんは販売所の所長、おばちゃんはその夫人、おばはんは母親と微妙に使い分けているとっちゃんの言うおっさんとは一体が誰なのか。

おっちゃんに聞いてみても、

「とっちゃんは、母一人子一人やから、おっさんいうのは、近所の人やと思うんやけどなあ」

と、はっきりしない。しかし、おっさんがとっちゃんにとって特別な存在であることは、その話しぶりから明らかだ。

カズさんに聞いても、

「いつも行ってる銭湯で会う人ちゃう?」

と、正体は謎のままだった。

そして、翌朝からもとっちゃんの“おっさんにまつわる話”は続いた。時々途絶えることもあったが、それがまた謎を深めた。

やがて僕たち3人は、おっさんの話題で盛り上がるようになった。とっちゃんから聞こえてくるおっさんの言葉には、不思議が一杯詰まっていたからだった。

とっちゃんとの付き合いが一番長いカズさんは、とっちゃんがおっさんを信頼するに至ったと思われる理由を、僕たち3人に教えてくれた。それはちょっと悲しい物語でもあった。

                Kakky(志波郁)


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