昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑦

2016年08月08日 | 日記

5月4日。翌日が休刊日とあって、夕刊配達が終わった後の販売所はのどかな空気に満たされていた。おっちゃんは軽口を叩き、いつもはそ知らぬ顔をしている大沢さんも、軽口の一つひとつに反応していた。上機嫌だった。

カズさんが帰ってきて全員が揃うと、おばちゃんの「さ、早う食べや~~」という声が奥から聞こえてくる。

「これや、これ~~!」

とっちゃんがいち早く立ち上がり、階段下に腰掛ける三人を押しのけるようにして、販売所夫婦の住まいの上がり框に向かう。

障子が開く。正座したおばちゃんの両手が大きなお盆を前に押し出す。お盆からは、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。

「一つやで!とっちゃん」

カズさんがすかさずとっちゃんに声を掛ける。が、返事はない。

「チキンラーメンやで」

おっちゃんの声に、即座にとっちゃんが丼の上の割り箸に手を延ばす。大沢さんと桑原君が笑みを浮かべながら続く。カズさんに背中を叩かれ、僕も続く。

「まだやで~~。待ってるんやで~~」

カズさんの注意をとっちゃんは聞く素振りも見せない。もう麺をすすり上げている。

「きったない食べ方やなあ」

カズさんの声に抗うように、とっちゃんのすすり上げる音が大きくなる。

「みんな、食べよ。とっちゃんに取られたらあかんしな」

カズさんが割り箸を割る。僕たち3人も丼を手に取る。

それからひとしきり、チキンラーメンをすすり上げる音が販売所を満たす。喉からお腹へと下っていく温かいおいしさに、お金を得ることだけではない労働の喜びを感じる。

食べ終わると、初めて大沢さんが声を掛けてきた。

「ちょっと二階に寄って行かへん?」

言われてみると、二階にはまだ一度も足を踏み入れていない。一緒にチキンラーメンを食べた親近感が、一気に大沢さんと僕の距離を縮めたようだ。

「お邪魔していいんですか?」

翌日が休刊日の気楽さが、僕の好奇心の頭をもたげさせている。司法浪人の暮らしぶりを垣間見てみたい。

「僕の部屋も覗いてみる?」

桑原君も、声を掛けてくる。

「いいの?」

と答える自分の声が弾んでいるのがわかる。

「もう~~。止めとき!」

おっちゃんの声に驚き振り向くと、カウンターから身を乗り出している。その目の先を追うと、麺とスープが残ってはいないかと、丼を一つひとつ念入りにチェックするとっちゃんの姿があった。

 

下から三段目でとっちゃんにいつも遮られている階段を、大沢さんの後ろから上がっていく。桑原君が僕の後についてくる。

「とっちゃんはええんやで!」

おっちゃんが、付いてこようとするとっちゃんを押しとどめる

階段を上がると、廊下が前に真っ直ぐ長い。なかなか奥が深い。廊下は突き当たりから左右に延びているらしい。T字路のようだ。前を行く大沢さんが途中で立ち止まり、左右を順に指差す。

「こっちが僕の部屋で、こっちが‥‥」

「僕の部屋やねん」

大沢さんの言葉の続きを桑原君が受け継ぐ。

廊下の左右に二部屋ずつあるように見えるが、はっきりとはわからない。突き当たり正面、ガラス戸の向こうは、生い茂る緑。裏庭の広さを感じさせる。

「どうぞ」

階段を上がって2~3歩先の角に、大沢さんの身体が消える。急いで付いていくと、曲がった途端、大沢さんにぶつかりそうになる。曲がった先はすぐに行き止まり。大沢さんの部屋へのエントランスになっている。

入り口は襖一枚のドア。開けると、南に向いた部屋が明るい。

「ほら、正面が植物園や」

開かれた障子の窓は広く、向こうには植物園の緑が夕日を浴びている。たっぷり6畳はあるだろうか。

「この押入れの向こうが桑原君の部屋なんやけどな、穴開いててな、覗くと桑原君の押入れの中が見えるんやで」

穏やかで寡黙、自らを語ることのない人だと思っていた大沢さんの饒舌ぶりが意外だ。

「君、タバコ吸うんやったなあ」

大沢さんが、部屋の左の壁に置かれた大きな本棚の上を探る。僕は部屋をぐるりと見渡す。人の匂いが希薄だと思う。本棚がでんと構えている以外は、左奥に座机と座椅子があるだけ。座机の上には六法全書と蛍光灯スタンド。ノートや筆記具は見当たらない。窓障子の戸袋の陰になっているせいか、そこだけがどんよりと暗い。

「ごめんな。灰皿見つからへんわ」

大沢さんの申し訳なさそうな言葉に「いいです、いいです」と応えながら、僕は、座机の一隅が気になってならない。夢の実現に備える場所にしてはエネルギーを感じない。

「まあ座ってよ」

大沢さんは座机の前の座布団を勧めると、自ら先に座机の前、畳の上に腰を下ろす。僕のための座布団との距離が近過ぎるように思う。

「失礼します」

座布団を少し引き寄せる。冷たい湿気を含んでいる。

「栗塚君、出身は何処だったかな?」

言葉付きは柔和だが、まるで面接のように会話は始まる。僕の出身地は知っているはずだが……。

「島根県です」

「あ、そやったねえ。で、昭和24年生まれ‥‥」

「そうです」

それだって知っているはずなのだが‥‥。大沢さんの左後ろの六法全書のせいか、弁護士が行う身元確認のようでもある。

「そうや、そうや。そやったわ。僕は‥‥」

「愛媛県ですよね。昭和‥‥」

横を向いた大沢さんの左手が引き出しの中をまさぐり続けているのが気になり、大沢さんの生年が咄嗟には出てこない。

「18年。‥‥戦中派いうことになるんやろか‥‥あった!」

大沢さんはくるりと僕に向き、左手にしたモノクロ写真の束を畳に置いた。上の一枚は古く、セピア色になっている。いきなり過去の写真を見せられるのだとすれば、少し抵抗感がある。

が、大沢さんの説明は始まってしまう。

一枚目。

「お宮参りの時の写真なんやけど、ほれ、これが姉貴」

大沢さんが笑みを浮かべながら指差す家族全員の和服が上質なものであることは、モノクロ写真からでもなんとなく想像が付く。なかなかのご家庭だったらしい。

二枚目。

「終戦後なんや、これ。21年か22年やと思うわ。“今撮っとかんとあかん”て親父が言うて、撮ったたらしいんやけど……」

そう言う写真の大沢さん家族に笑顔はない。しかし、両親の着物姿は変わらず上品で、お姉さんと手をつなぐ大沢さんの半ズボンと革靴には、戦時下にあっても豊かな暮らしを続けることができていたゆとりが感じられる。

大沢さんの父親はどんな職業だったのだろう?実家は愛媛県の何処?空襲は免れたのだろうか?大沢さん家族の戦後の暮らしは?大沢さんが新聞販売所への住み込みをすることになったのは何故?‥‥‥‥。次々と疑問が浮かんでくる。

しかし、質問をする間もなく、次々と写真はめくられていく。小学生へ、中学生へ、そして高校生へと成長していく大沢さんと、その背景の変遷を眺めながら説明を聞く。大沢さんのこれまでに興味はあるが、好奇心が湧き立つほどではない。むしろ、大沢さんが中学生になった頃から父親の姿が見当たらなくなったことのほうが気になってならない。

「引越し多かったんですねえ」

大沢さん家族の背景の移り変わりは、一家の度重なる引越しを示しており、それはとりもなおさず、父親の環境が激しく変化していったことを表している、はずだ。

「田舎やろう、愛媛。海も山もあるのはええんやけどなあ」

「島根もそうですけど、日本海と瀬戸内海では違いま‥‥」

「この写真、どう?」

僕の言葉をさえぎり、引き出しからもう一枚、モノクロ写真を取り出す。田舎の畦道に佇む少年の写真だが、大沢さんではなさそうだ。

「普通の人と違うやろう?」

確かに利発そうには見えるが、特別な印象はない。

「そう言えばどこか‥‥」

言葉を濁し、もう一度写真を凝視する。しかしやはり、これと言った特徴は見出せない。

「この人はやねえ‥‥」

大沢さんの顔が近づいてきた、その時を見計らったかのように、部屋の外から声がかかる。

「栗塚君~~」

桑原君だった。絶妙なタイミングだった。不可思議な領域へと連れ込まれていく感覚に、少しばかりの怯えと警戒心が生まれ始めていた時だった。

「桑原君やな」

大沢さんの顔がつと離れ、モノクロ写真の束が素早く引き出しに押し込まれる。

「紅茶できたんで‥‥」

細く開けたドアから、桑原君の鼻先が覗く。

「あ、今行く。‥‥大沢さん、ごめんなさい。また寄せてもらいます」

そそくさと立ち上がる。

ドアを開くと、桑原君の真顔が待ち受けていた。

 

桑原君の部屋には西日が差し込んでいた。大沢さんの部屋も決して暗くはなかったのだが、座机のある一角が印象深かったせいか、桑原君の部屋に比べて格段に暗かったような気がする。

西側に向かって開け放たれた窓の向こうは賀茂川。大沢さんの部屋と同様、腰窓よりもやや低い窓には手摺が付いている。

「あぶないとこやったなあ」

ソーサーに乗せた紅茶カップを手にした桑原君が、潜めた声で言い、ちらりと部屋の入り口を振り返る。

「え?!僕、あぶなかったん?」

窓の桟に腰掛け、紅茶のカップを受け取る。桑原君はタイミングを見計らい、僕の救出に来てくれたのだろうか。

「いや、あぶない言うても気持ちの問題やけどな」

桑原君はまだ声を潜めながら、机の上の電気ポットから自分用のマグカップに紅茶を注ぐ。「勧誘が始まるとこやったんやで」

「何の?」

「宗教や。僕も誘われたんやけどな。断ればしつこく言うてくる人やないけど、君が入ってもうて後悔してもあかんし。断ったら断ったで、話しにくうなってもあかんしなあ。仕事仲間やからなあ」

そう言って、桑原君は紅茶を啜った。押入れ一つ、襖2枚隔てて隣り合わせに住み、同じ仕事をしている二人の間に、実際の距離よりも微妙に遠い距離感を作ったのは、このことに違いない。

「眺めいいねえ」

僕は窓の桟に腰掛け、北山橋から賀茂川西岸、賀茂川上流へと目を転じていく。西日が目を刺す。

「大沢さん、なんでこっちの部屋選ばへんかったんやろうなあ」

「桑原君が来た時、こっちが空いてたの?」

「そうなんや。それとこの奥の部屋。ほれ、奥にもう二部屋あるのわかったやろ?」

「ああ、左右にね。空いてるみたいやねえ」

「右側の部屋には学生がおったんやけどな。僕がここに入ってすぐ出てったんや。僕が入ってくるの待ってたんやろうなあ。君、住み込み選んでたら、奥のどっちかになってたいうことや」

「奥の左側は、ここみたいな窓あんの?賀茂川向いて。そこやったら住み込みにしてもよかったなあ‥‥」

眼前に広がる景色の魅力に、僕は本気でそう思った。

「う~~ん、それはどやろ。通いの方がええんちゃうかなあ」

「なんで?」

「いろいろと気い使うもんなんやで、住み込みいうのは」

「下宿と同じようなもんちゃうの?」

「下宿には主従関係ないやんか」

「そうやけど‥‥」

「まあ、世の中いろいろあるいうこっちゃ。しかし、ようできとるで。4人住み込みがおって、カズさんがおって、ちょうど配達にはええ人数という、そういう計算やもんなあ」

言われてみると確かにそうだ。最初から計算されたことではないかもしれないが、よくできている。が、

「一人突然辞めた時は?」

「その時はおっちゃんが配ることになってるんやて。二人いっぺんに辞めたらおばちゃんも配るんやて」

「カズさんが辞めると大変だ……」

「大変やろなあ、それは。……大変やけど、その時はおっちゃんとおばちゃんの配る分が増えるだけちゃうか?きっとそうやで。なんせ、もともと大広間だったのを4つの部屋にしたのがこの二階やし、一階は割烹だったんやからな。変幻自在やで、あの夫婦」

桑原君の情報収集力に驚きながら、販売所夫婦の人生の移り変わりを思い描く。賀茂川を臨む割烹旅館から新聞販売所へ、いつ頃から、どうして転業していったのだろう。

「しかし、たくましいなあ、おっちゃんとおばちゃん」

「子供がいてへんやろう?そこらへんがなんか関係してるんちゃうか?そう睨んでるんやけどな」

同い年のはずの桑原君が随分大人に感じられる。世間というものを、僕よりはるかによく知っているようだ。

「しかし、ええ景色やねえ」

目を窓外に転じる。賀茂川の堤防を自転車が走っていくのが見える。河川敷には寄り添い歩くカップル。僕は啓子を思い出す。と同時に、奥に続く長く暗い廊下、その左右に存在する二つの無人の部屋、そこに刻み込まれてきた多くの若者の時間も想う。

「君、いつも何してんの?」

不意を突かれたように振り向くと、灰皿片手の桑原君の顔がすぐ側にある。

「新聞配り終わったら勉強?できる?勉強」

桟に腰掛けた桑原君と斜めに向き合う。

「桑原君はどう?勉強してる?」

「そんなもん無理やで。朝刊から帰ったら寝てまうし。起きたらもう昼飯やし。昼飯食い終わってちょっとしたら夕刊やろう。夕刊終わったら‥‥。ま、言い訳やけどな。やる気あったらできるもんやからなあ、勉強なんて。‥‥吸う?」

ハイライトに火を付け、一本を僕に勧める。

「やる気の出し方いうもんがあったら教えて欲しいくらいや」

口に咥えた一本に火を付けてくれながら、桑原君は大袈裟に嘆息する。

「それ、僕も同感やなあ。‥‥大沢さんは一生懸命やってはんのかなあ、司法試験の勉強」

桑原君の率直な明るさは、大沢さんの座机のある一角を対照的な光景として思い出させる。

「してはるん違う?おっちゃんに“来年は絶対合格したい思うてます”言うてんの聞いたことあるし。けど、ほんまのとこどうなんやろ?わからへんなあ」

「人のこと気にしてる場合違うけど、あの人はやる気の出し方知ってはるような気がするけど……」

「それ、まさか宗教のお蔭ってこと?せやったら違う思うなあ。4回連続で試験落ちはって、ポロッと欠けてもうた何かを埋めるもんだったんちゃうか?宗教は。“心をもう一回まん丸にできる”言うてはったで、僕を誘わはった時は」

「まん丸かあ。‥‥魅力的やんか」

「いや!違う!」

深く考えもせず洩らした感想に、桑原君は突然強い拒否反応を示す。僕は、賀茂川右岸の堤防を行く少年たちを見下ろしていた目を上げる。

「僕は、僕ら若いもんは、もっと尖ってんとあかん思うんや。耳を尖らせ目え見開いて、もっといろんなこと知って、行動せんとあかん思うんや」

桑原君の言葉が俄かに熱を帯びる。その顔つきは、予備校の中庭でアジっていた男に似ていた。“アジる”という言葉を初めて知ったその時、アジっている男の言葉が、その音量ほど響いてはこなかったことも思い出した。

「ま、人それぞれやけどな」

一瞬の沈黙の後、桑原君の目が和らぐ。

「何時やろう?」

遠く賀茂川西岸の向こうに目をやると、西日がゆっくりと落ちつつある。

「腹減ったなあ。飯食おうか」

桑原君は腰を上げる。僕は生返事をしたまま灰皿の吸殻をまさぐる。

「もう一本どや?」

ハイライトの箱が差し出され、小さく振られる。顔を出した一本を摘み取る。

「もらって帰っていい?」

一緒の夕飯をやんわりと拒否。タバコを口に咥えて立ち上がる。

「じゃ、今度。中華行こうな」

「うん。じゃ、明後日以降」

桑原君の部屋をそそくさと出る。廊下に電気はなく、暗い。廊下の奥の窓に、庭木の大樹が影だけになっていた。

       Kakky(志波郁)


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