タクシー乗り場に向かう。
立ち上がった希子は思いの外、背が高い。170cm近くありそうだ。青のワンピースと思っていたが、実はレイヤード。ワンピースの下にジーンズと長袖Tシャツを身に付けている。キャリーバッグを手にして前を行く姿は、郊外の新興住宅街を闊歩するヤンママに見えなくもない。
希子の後ろからガード下を抜け出ると、そこは異世界。メグを膝にした希子と共にした空間が本来の居場所のように思える。
タクシー乗り場までのわずかな距離を希子のペースで歩く。希子は振り向かない。
タクシー乗り場には10人ばかりの列。いつもの週末より少ない気がする。GW前の週末金曜日深夜2時。そろそろ高速道路の下りが混み始める頃か。府中までは30分程度で行けるだろう。
タクシーに乗ると顔は窓外を向いたまま、希子は隆志の膝に手を乗せてくる。
「窓の外眺めるの、好き?」
10分ほどの長く感じられた沈黙を破る。
「タクシーの窓だったら雨の夜かなあ」
「そうかあ。いつもと同じ景色が違って見えるもんね。初めて見る景色よりも好きなんじゃない?」
「そうかも。初めて見る景色は“初めて”っていうだけだからかなあ、美しいと思っても目に残るだけで心には残らないような気がする」
「安心を担保しておかないと感動もままならないという……」
希子の言葉が途切れる。表情は目にすることができないが、自身に語り掛けているようにも思える。
ガード下の薄暗がりから身を出すと希子は、過去闘ってきたもの、捨ててきたもの、捨てきれず抱え続けているものを目にし、耳にしてしまうのかもしれない。
甲州街道東府中駅入り口を過ぎる。隆志の身体と意識はガード下の世界から完全な離脱を果たしている。希子は沈黙を続けている。キャリーバッグの中でメグも静かだ。隆志の日常に戻っていく道程は、彼女たちにとっては非日常への道程。トキメキと不安、どちらがより強く心を占めているのだろうか。
タクシーを止める。府中駅徒歩15分のマンション。多くが都心で働く住人たちの帰宅ラッシュ時は“集蛾灯”を思わせるエントランスの照明が、今は宿の灯火のようだ。
タクシーを降りた希子は言葉もなく、12階建てを見上げたまま動かない。手にしたキャリーバッグがふと小さく揺れた。
「どうぞ」
自動ドアを入り、手招きをする。声に唾液が絡む。
「どうぞ」
もう一度言ってエレベーターに先に乗る。行き先は7階。
701号室。3LDK68平米。再婚をきっかけに購入した1室は、今では一人には広すぎる。
鍵を開け振り向くと、希子はキャリーバッグを胸に抱きかかえている。
リビングに通された希子はすぐにメグをキャリーバッグから解放。メグは辺りを嗅ぎ回り、キッチンから隆志が運んできたトレイの水に口を付ける。
「お腹空いてないかな?」
隆志がメグにしゃがみ込む。と、笑い声がする。見ると、フローリングを撫でる希子の笑顔があった。凭れたソファの上にはストールが丸めてある。
「緊張してない?」
「いや。……うん。少しね」
「自分の部屋なんだからリラックスしたら」
「それはそうだけど……」
「隆志の居場所になっていないのね」
「俺個人の居場所としてはね、そうかもしれない」
「一人の暮らしに部屋が馴染んでない気がする。空気がね、そう教えてくれるの。そうそう、フローリングにもね、そんな感触があるよ」
「勘がいいんだね。匂いや感触で場所と人との関係の深さがわかるの?」
「勘だけじゃないよ。隆志が教えてくれてるの。匂いや感触は追認のために必要だけど。緊張感なんてわかりやすく伝わりやすいものでしょ。追認する必要がないくらい」
「でも、ここでは希子は追認を必要とした」
「私が必要としたんじゃなくて、隆志に必要だった」
「俺に?」
「そう。自分の中の緊張感に気付いて自分だけでそっと向き合ったりすると、緊張を解くことなんてできない。緊張感なんて体の外に追い出さなくちゃ」
「どうやって?」
「緊張感も執着が生み出すものでしょ。今の隆志の緊張感は、きっと私がここにいることが原因。緊張感のような得体のしれない厄介な感覚を撃退しようと思ったら、原因となっている得体の知れたものときちんと向き合えばいいんじゃない?」
「それが体の外に追い出すこと……」
「“お前の正体を見極めてやる”って見つめればいいのよ」
「わかるような気も……」
「ほら。今はどう?メグに水を上げてくれた時と比べて。緊張感、それほどでもないでしょ?」
「うん。それはそうだけど……。でも、緊張の種って尽きないもんだね。また新しい緊張感が生まれつつある」
「それはいいことよ。一歩前進。私も望むところだから。安心して。でも、その前に……」
希子は立ち上がり隆志に背を向けると、おもむろにワンピースを脱ぎ始める。
長くはない黒髪をかき上げてはらりと下ろし、丸めたワンピースを無造作にソファに投げ落とす。
小ざっぱりとしたジーンズとロンTは、希子がガード下にいたことなど想像さえさせない。
「きれいにしてるんだね」
ふと漏らすと、希子はくるりと隆志を向いた。
「ワンピースは私の衣装だから。脱がないと私もリラックスできないの」
「衣装?」
「外界、特に男を意識した衣装。防具と言ってもいいかな」
「防具?ワンピースが?ジーンズじゃなくて?」
「ワンピースは弱々しく見えるから?そうね。そうイメージしてるわね、ほとんどの男は。でも、それはどうだろう。見たいように見てるだけかもしれないよ。装いってフェイクだから」
「女らしさとか男らしさって認めたくないのかな?希子は」
「そんなものあったっけ、て感じ。そんな言葉が存在し価値基準になってることが諸悪の根源かもしれない。いつ頃からかなあ、そう思ってる」
「でも、ワンピースはそんな価値基準を活用した……」
「ものよ、間違いなく。私が信じているかどうかではなくてね。だから衣装なの。……防具なの」
「ワンピースと防具って、しかし、イメージに適合性がないなあ」
「囚われてるわね、隆志も。ワンピースを身に着けたヤマアラシをイメージしてみて。猛々しさを露わにしてる女って嫌でしょ。男の偏見て女の偏見より傲慢だから、それに合わせる術を持っていないと危険なの。だから、ワンピースは衣装で防具」
隆志はクラッカー一箱をフロアテーブルに置き、冷蔵庫に残されていたミネラルウォーターを手にしてソファに腰を落ち着ける。
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