「質問していいかな」
「どうぞ」
「君、大学では何を学んだの?」
「そうきたか。聞きたいのね、それを。いいわよ。でも、その前に。“君”は止めよう。“希子”にして。いい?」
「了解」
「私が行った女子大は仏教系で、私が専攻したのは東洋哲学。納得できた?」
「納得というか、少し理解が深まったという……」
「嘘!納得したかったんでしょ。隆志さん…私も隆志って呼び捨てにしていい?…じゃ、隆志。理解って、隆志の中の常識との整合性を取りたかっただけじゃないの?偏見と言ってもいいけど」
「偏見は……ないとは言えないけど」
「偏見のない人っている?偏見のない人って、知識欲も考える習慣もない人だと思ってるけど。ある教授…大好きだった教授なんだけど…が言ってた。“知的好奇心に不純物はつきものだ。不純物は偏見の温床になる。除去しなくてはならない”って。その言葉、ずっと頭に残ってる」
「俺も似たような言葉をある先輩から聞かされたよ」
「その先輩、なんて言ったの?」
「“知識の不良在庫は適宜廃棄されなくてはならない”ってね。こんなことも言ってたなあ。“新旧を判断基準にしてはならない。新しいものにはまがい物が多い”って」
「わあ、その先輩興味あるなあ。どんな人だったの?」
「理学部から文学部に転部してきて哲学を勉強してた。4年生になった時、ふっと消えたけど」
「消えた?」
「消えた。2年後に見つけたけどね」
「どこで?何してた?」
「寿司握ってた。すっかり板についててびっくりした」
「哲学に幻滅したのかなあ。でも、いいなあ、好きだなあ、私、そういう転身」
「学問に幻滅したんじゃなくて、大学生であることに飽き飽きしたんじゃないかと俺は思ってる。……それより、希子のこと。で、通帳を受け取って、いよいよ自立したわけだね」
「形の上ではね。でも、住まいって不思議なものね。場所であって場所じゃないのね。引っ越した後も…ワンルームマンションに引っ越したんだけど…まとわりついてくるのね」
まず二日間窓を開け放し、マンションまで付いてきた甘い匂いを除去した。次いで、一輪挿しを買って花を活けた。自分の部屋がやっと少しだけ自分の匂いに染まり始めた、と思ったが、新たな問題が生じた。父親への恋しさが突如として湧き上がってきたのだ。
「どう表現していいかわからないわ、今でも」
複雑だった。父親を父親として見たことはなかった。父親の何たるか、イメージもなかった。しかし、単なる初老の男として見ていたわけではない。もちろん、一人の男として見る目などはさらさらなかった。が、なのに恋しい。
「恋しいという言葉が適切ではないような……」
「気がするでしょうね。私も自分の感情に色々な言葉を当てはめてみたんだけど、だけど、でも結局行き着いたのは恋しいって言葉だった。それと……」
「それと?」
「父親を恋しく思ってる自分に気付いた翌日、その時を待ってたかのように新妻がやって来たのよ。ドアを開けた瞬間匂いで新妻とわかった。でも、その瞬間は、あれだけ嫌悪感を抱いていたその匂いに何も感じなかった。 “部屋にあった忘れ物を持って行くようにって言われたのよ”って言葉を聞いた時よ。嫌悪感よりももっともっと厄介な感情が湧いてきたのは」
「怒りとか……」
「怒りは厄介じゃないでしょ。支配的だけど。……嫉妬。嫉妬だったのよ、驚くことに」
「それは意外だね」
「意外だけど、すぐ納得いったの。新妻が持ってきたペーパーバッグを“ここに置いていい?”と言ってしゃがんだ、その背中を見た時、“家の中で父親の目に映る女性はこの人だけになったんだな”って思った。それって嫉妬でしょ?きっと私、新妻がやって来た瞬間から嫉妬してたんだって思った。好意を持っている人の五感が及ぶところにあった自分の居場所が奪われた時、奪った人に抱くのが嫉妬なんだなって思った。私はきっと、奪われたと思いたくなくて、そんな風に思ってしまうと自分を卑しく感じてしまいそうで、自覚なしに自立を望むようになったのかもしれないって、そう思った」
「すごい!すごいね、希子。そんな風に自己分析できたんだ。すごいよ」
「すごくないよ。19の時から今までかけて言葉にできるようになったんだから。自分の感情が生成されるきっかけや熟成されていく環境や過程を、ただぼんやりと飲み込んでいるのって体に悪いから、自分自身に説明くらいしてやらないとね。東洋哲学を選んだのだって、自分の中に湧いた嫉妬という毒虫をきちんと駆除したいと思ったからなんだ」
「駆除はできたの?」
「それは無理。成虫はやっつけられるけど、卵まで完全駆除するのは無理。環境はいいし、餌も多いしね」
「完全ではないにしても成虫を駆除できるようになれば、心が身軽になるね」
「そうかもしれない。でも、虫はどんな虫でもみんなダメって潔癖さがあると苦しいでしょうね。苦手な虫が特定できて、そいつの弱点を知って、それから駆除方法だもんね。駆除方法は虫によって違うから」
「希子が発見した嫉妬って虫の効果的な駆除方法は?」
「執着を根絶すること。嫉妬という虫の大好物だから」
「根絶は難しそうだけど…」
「確かに、難しかった。苦労した。いつのまにか、執着を根絶することに執着してるという。ホント馬鹿々々しい状況に陥ってたりしてね。その間に友達もできたし、恋もしたしね」
「執着なしに恋なんてできないしねえ」
「………」
希子の表情が曇ったような気がした。もう午前1時はとっくに回っている。ガード下の人通りはほとんど途絶え、通り抜けていくクルマの数も少なくなっている。スクランブル交差点あたりから聞こえていた騒めきも、もうない。
しかし、お互いの声が聞き取りやすくなり、自分の口から出た言葉が自分自身の耳にまで届いてくるようになるにつれ、言葉はむしろ二人の間に留まりがちになっている。羞恥さえ漂い始めている。
隆志はすっかり酔いの醒めた頭で、これからのことを考え始めている。別れるにしても隆志が望んでいるようになるにしても、ぎごちない方法はとりたくない。些細な煩わしさが二人の間に残るようなことがあってはならない。
覚醒したまま心地よさに囚われていく、まるで催眠効果のあるような言葉の連続に、隆志はすっかり魅せられていた。このまま二度と会えなくなるようなことだけは避けたい。
「恋って言葉、突然言霊となって襲いかかってくると思わない?お互いが口にすると、口にした者同士の間で事実になっていくような……」
「そうかもね。ある意味で“禁断の言葉”なのかもしれないね。事実に言葉が冠せられるというよりも、言葉が事実化していくような……」
「よし!じゃ、これどうだ。隆志、君は私の14人目の男になる気はあるかね」
「う、うん」
「よし!じゃ、行こう!」
「え?!行こうって?どこへ?」
「隆志の部屋だよ」
「え?!俺の……?一人暮らしだと思ってるの?」
「違うの?そうなんでしょ」
「3カ月前からそうだけど……なぜ、わかったの?」
「メグがそう教えてくれた」
希子は膝のメグを撫でる。メグを見る目には慈しみ以上の色が差している。二つの命は飼い主と飼い猫の関係を超え、一つの生命体を織りなしているように、隆志には見えてくる。
「よし、じゃあ、メグを連れて俺の部屋に行こう!」
隆志は立ち上がる。希子は壁際に手を延ばし、ランチボックス様のものを取り出す。希子の話の中に出てきた通帳を始めとする貴重品のいくつかが入っているのだろう。
「持ち物、それだけ?」
「ううん。これはメグの移動ハウス」
「希子の物は?」
「秘密の場所にね、少しはあるよ。いつも持ち歩いてると気になるでしょ。執着も生まれるし」
「秘密の場所、安全?離れても大丈夫?」
「安全!安全じゃないと気になるでしょ?気になると…」
「執着が生まれるか……。じゃ、いいね」
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