俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

9月5日(月)

2022-09-05 13:09:20 | 日記
晴れ

●『現代俳句Ⅰ』をお送りくださった島村氏から、返信。私の礼状に天狼の予志先生や松高俳句会出身の絵馬、梵、脩先生のことを書いたので、懐かしさ一入だったということなどを認められていた。31日に認めておられる。

思うに、私が手紙を送って、向こうに届いて、先方から返信をいただくまで、ずいぶん悠長な時間が流れていると感じた。新しくなった郵便システムのせいなのだが、私の経験した戦後からの時代の範囲を超えて、小説で読んだような手紙のやり取りに掛かる時間のように思えた。このレトロな悠長さ。ある意味優雅である。これは裏時間に違いない。表時間には宅急便が当日配達される。

●「句跨り」について
花冠の俳句、現代俳句の多くでは、句跨りは珍しくないが、俳句の定型である5-7-5をきっちり守っている人たちにとって、このリズムの乱れには違和感を覚えるらしい。
本年の「愛媛若葉9月号」に若葉主宰の鈴木貞雄氏の「句跨り」についての文章があった。いつ書かれたものかわからないが、書きおろしではなさそうだ。その文章から「句跨り」をどのように氏がお考えか、読み返してみた。破調については、韻律論から信之先生が論じておられる。

①芭蕉の「海くれて鴨のこゑほのかに白し」は、句跨りの句であるが、この句についての考察。
<「海くれてほのかに白し鴨のこゑ」と詠めば、整った五七五の句になるが、それを敢えて破調の句跨りで詠んだのは、一句が詩(漢詩)的発想であったからではないかと思われる。句跨りの調べには、五七五の調べとは違うニュアンスが生まれる。>

②夏蜜柑むき緑陰は二人のもの  風生
<一句は「夏蜜柑 むき 緑陰は 二人のもの」と区切って読めるが、意味の上から「夏蜜柑むき」と「緑陰は二人のもの」と句跨りで二分節となる。>
<現代風の軽妙さを出すために口語調の調べを選ばれたからであろう。>

③年木樵る音かつづきてゐしが止む  敏郎
<意味の上からは、「年木樵る音か」「つづきてゐしが止む」の二分節に分かれる。この句の場合も上五ご中七、中七と下五が句跨りである。敏郎先生は旅宿で、遠くの山から聞こえてくる音を聞くともなく聞かれていて「、年木を樵る音ではないかと気づかれたのだ。その訝しげな気持が、句跨りのプツンプツンと切れる調子となって表現されたのである。>

④木の葉降りやまずそぐないそぐなよ 楸邨
<一句は「木の葉降りやまず」「いそぐないそぐなよ」の二分節で、上五から中七にかけてが句跨りである。病中にあった楸邨が木の葉が頻りに降るのを見て、木と自分にたいして焦ることはない呼びかけるようにして詠んだ句である。昂進する心と抑制する心が、自然と句跨りの調べを生んだのである。>

まとめると、
外国文学の韻律からの影響をうけ、ニュアンスを生んだり、現代の時代の軽妙さや、現代人の複雑な気持ちや心情の流動を表すための句跨りや破調が起きている。
当たり前の結論だが、現代社会や現代人の心には、五七五の定型から漏れるものやことがかなり多いなのではと思わざるを得ない。




コメント
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