の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

河俣社

2013年01月06日 15時19分07秒 | 近畿(奈良)
■境内入口■
(1st January 201)
 


★河俣社★ 奈良県橿原市雲梯町689

・延喜式内社、大和國市郡、市御縣坐鴨事代主社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は鴨八重事代主。

・『大和志』では、式内市御縣坐鴨事代主社として、藤原京の大極殿蹟の鴨公社を比定しているが、宇奈提と呼ばれた地は雲梯町しかないとされる。

・『出雲國造賀詞』は、大穴持命が國土を天孫に讓って出雲の杵築へ去るに當たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うが、 その中に「事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ・・」とあり、宇奈提は現在の雲梯町であるとされる。

・『日本書紀』に、壬申の乱の時、市郡大領市縣主許梅に懸りし、「われは市社にいる。名は事代主」とし、顯わした豫言は的中、天武天皇から勝利に功ありとされたとある。この靈驗により、市御坐鴨事代主に、史上初となる位が授けられている。

・攝津國一の宮住吉大社には畝傍山口社境内における埴取の事があるが、その祭祀を行う者は當社で裝束を整えることが恒例となっており、そのことから「裝束の宮」と俗稱される。


■鳥居■
(1st January 201)



■拜殿■
(1st January 201)

 


■本殿■
(1st January 201)



■繪馬■
(1st January 201)
 


((コメント))

2013年1月1日

 私の里の宮、河俣社である。何年か前にいった時と同じく拜殿は開け放たれ、無人の狀態である。寂しいものであるが仕方がない。さんが本殿の前に立っていたので久しぶりに挨拶してきた。

枯木社

2013年01月06日 15時01分06秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■子寶石■
(23rd November 2012)
 


★枯木社★ 兵庫県淡路市尾崎

・舊社格は無格社。

・祭は天兒屋根命。

・古くは郡家に屬す。

・社傳によると、昔、枯木が志築浦へ流れ着いたが、濱邊の人が薪にしようと手を触れると、祟りがあった爲、すぐ沖へ突き流したという。その枯木が波のまにまに尾崎の濱に流れついた。大きい木なので薪にしようと濱人が拾い上げ、木を切りかけたところ、木から血が流れ出した。驚いた人人は枯木を海へ流したが、翌日、同じ濱邊に打ち上げられた。何も知らない人がまたもや薪にしようとすると、その人は急に病氣になった。祟わしい木ということで船に積み、沖の方へ運んで再び流した。ところが翌日、また同じ濱邊に漂着したので、浦人の有緣の瑞靈として引き上げ、祭祀することになった、という。

・一説に、靜御前が携え持ってきた枯木であるとも言われる。

・昭和五十年(1975)ごろ、枯木(戸數約六十戸)に大事故が續出した折、祈禱師が「御體に雨漏りがしているためだ」といったので、急遽、社殿改築の相談がまとまり、社殿が壊された。そのとき、初めて人人は御體を目の前にしたという。それはさ約二・五メートル、兩手を左右に廣げた形の枯木で、樹皮がなく、赤い色をしているが木の種類は不明である。木肌には白い晒が、また中央部から下には菰が巻かれていた。漁師が四、五人で担いで仮本殿に移したが、ずっしりと肩にこたえたという。何百年經たものか不明であるが、蟲がついた樣子もなかったという。いずれにせよ、このように上部が股になった木は靈が宿りやすいといわれる。

・『日本書紀』にある「推古天皇のとき、南方から香木が漂着して云云」の香木が當社の御體ではないか、と考えるものもいる。香木であるがゆえ何百年も朽ちずにいるということである。

・婦人病に靈驗あらたかといい、女人の參拜が多い。

・かつては夏祭の當日、に詣でた女人衆が、腰巻姿になり社下の海に入り潮浴びをした。太陽が海の彼方に沈みかける頃、女人衆は兩股を最大限に開いて石の上にペタリと座して潮につかる。座る石は限られており、通稱、ぼぼ石、おめこ岩、ちゃこ石、おまんこ石、こしけ石などと呼ばれる。波打ち際の石は晝の太陽に燒きついており、波が打ち上げても温もりが冷めないので、社下に溫泉が湧き出ているといわれたこともあったという。


■鳥居■
(23rd November 2012)
 


■社殿■
(23rd November 2012)
 


■海社碑■
(23rd November 2012)



■末社■
(23rd November 2012)
 

・祭は蛭子。


((コメント))

2012年11月23日

 枯木社、日本最古の香木傳承地であるということで、折角なので訪問してみた。社自體は小さいところである。裏手は少し低くなっており、そこに子寶石というものがあるのであるが、おそらく、ここは以前は海に沈んでいたところであると思われ、女性器の名がついた石や岩があったというが、それらのうちのどれかではないのだろうか、と思う。いや、しかし、夏祭りが今も同樣に繼續しているとすれば、もっと海手にあるのであろうか。だが、それらしきところは見えなかったように思う。疑問である。