の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

池社

2013年01月14日 23時21分53秒 | 近畿(奈良)
■明池■
(9th April 2009)
 


★池神社★ 奈良県吉野郡下北山村大字池峯

・舊社格は社。

・祭は市杵島姬命。天兒屋根命、少彥名命を配祀。
・社頭の明池は、古くは北山川の河底であったと考えられる河蹟湖で、琵琶池とも云うが、古來、白蛇(龍)が住む地と傳えられ、當社の御體として崇められてきた。

・明池はいかなる日照りや大雨のあとも水位に変化のない祕な池であるといわれる。

・社記によると、古くは現在地から池をはさんだ北東約百五十メートルの字辻堂に鎭座していたが、元和年(1615-24)に現在地へ遷宮、舊社地にも小祠を建てて、奧宮として崇敬を續けたという。

・明治十二年(1879)の境内整備以前は池の南端が現在の鳥居前まで入り込んでおり、眞曲橋という反り橋が架けられていたという。

・傳承では、明池は里人にヌシのいる池と恐れられていたが、天武天皇の白鳳年(650-654)、役行者が大峯山から下山した際、舊社地にそのヌシを祀ったという。

・この池にまつわる民族傳承も殘り、池底の腐木が浮かんで動きまわるとき、「浮木さま」といって目出度いことのある前兆とし、天災や凶事のあるときは池が地震のように鳴動し水面に異變が起こり、社殿も搖れ動くと傳えられる。また、池中に石や不淨物を投げ込むと雷が鳴り、天變が起こるともいう。

・死人を運んで社前を通ると威を汚すということで現在も遠く池尻を迂回して通るという。

・氏子區域は、池峯、上、下池原に、元和年(1615-1623)から寺垣内、浦向、佐田、上下桑原、が加わり、明治初年(1868)には上北山村も氏子であったという。崇敬者は広く、上市、天川より遠く新宮付近まで及んでいたことが奉納石燈籠や扁額よりわかる。


■鳥居■
(9th April 2009)



■拜殿■
(9th April 2009)
 
 
 


■本殿■
(9th April 2009)

 


■拜殿、本殿■
(9th April 2009)
 


■明池と小祠■
(9th April 2009)




((コメント))

2009年4月9日

 長い、下北山村にこれといった社を見つけることができず、不思議に思っていたのだが、いわゆる、下北山村の總氏とされる池社を發見したので、行くことにした。

 大きな池がありすがすがしいが、山の樣の社ではないのでなんか、自分にはわかりにくい感じであった。龍というような氣ではなかった樣に思うのだが不在であったのかね。

室生龍穴社

2013年01月14日 22時55分28秒 | 近畿(奈良)
■拜殿の前の空■
(1st January 2013)
 


★室生龍穴社★ 奈良県宇陀市室生区室生1297

・延喜式内社、大和國宇陀郡、室生龍穴社。

・舊社格は村社。

・祭は靇。天兒屋根命、大山祇命、水波能賣命、須佐之男命、埴山姫命を配祀。本來の祭は善女龍王という。

・『日本紀略』弘仁九年(818)七月十四日條に「遣使山城國貴布禰社、大和國室生龍穴等処、祈雨也」とあり、古くから朝廷により祈雨のとして崇敬を受けていたことがわかる。ただし、貴布禰が社とあるのに對し、當社がただ室生龍穴とある理由は單に社殿がなかったためなのかは明らかではない。

・『三代實錄』貞觀九年(867)八月十六日條に、「大和國從五位下檉生龍穴正五位下」と記される。

・『室生山年分度者奏狀』に「寔是仙遊処。衆聖遺蹟也。即以件龍王。爲伽藍護法也。毎有旱災。臨龍王之穴池。而祈甘雨。祝言末訖。雲雨彌降。五穀忽茂。万姓感悦。」と祈雨の効驗すみやかなることが記されている。

・『室生山年分度者奏状』によると、山部王、のちの桓武天皇が病に伏した時、淨行僧五人に室生山中で延壽の法を修せしめたところ、山部王は平癒したので、賢憬が仰せを受けて山寺を創建したが、龍王の効驗がますます著しかったため、國家鎭護のとしたとある。

・『室生山年分度者奏狀』は、天應元年(781)から承平七年(937)までに二十九度、勅使や國司が龍穴に派遣されて請雨、止雨の祈禱がなされたが、その都度、効驗があったと記している。

・豐臣秀長が郡山城に入り、室生寺が興寺から離れるまで、當社も興寺の支配を受けていた。

・松山藩の領主織田氏が新しい館を建てるため當社の木を伐採したところ、一夜告の靈夢を見たので驚き、ただちに人を遣わせて伐採を中止し、「木而二不二」と刻んだ標石を境内に建てたと傳えられる。

・口碑によると、室生の賢憬が龍王の生身を拜むため龍穴に深く入ったところ、その奧に龍宮があり、机の上に法華經一巻が置かれて光を發していたのだが、そこに一人の男が現れ、賢憬に用を聞くと、龍王の生身を拜みたいと答えたため、ここでは狹いから外で会おうというので、龍穴の外で待っていると三百メートルほど離れた水面上に龍王が衣冠を着して腰から上を現したという。賢憬は地にひれ伏して拜んだがまもなく姿が消えたので、そこに龍王の姿を刻んで祈ったといい、その場所が今の龍穴社であるという。


■鳥居■
(1st January 2013)



■境内■
(1st January 2013)



■拜殿■
(1st January 2013)

 


((コメント))

2013年1月1日

 吉野から津風呂湖の北を抜け、菟田野の古市場から榛原の内牧へ抜け、國道三六九號へ入り、室生の弁財天から北へ縣道二八號を走るルートをとったのであるが上内牧から雪が積もっており、路面もかなり凍結した狀態。スタッドレスでよかった。

 寒い風が吹く中、ようやく、室生龍穴社の鳥居前へ到着。車が一臺停まっているだけでほとんど燈りも見られない。寒い、ただひたすら寒いだけである。龍が奧にいるのはわかるがあまり「怒」の狀態ではなく、ただ靜かに鎭まっている感じであった。寫眞を境内で撮っているうちに、拜殿の前の空にも龍が出てきたようであり、寫眞にエネルギー體が入ったのであるが、見える人はいかほどいるのだろうか。

 しかし、初めてである。普通、正月三箇日は參拜の爲に拜殿は戸を開けているべきものなのであるが、ここは燈りのみで拜殿は閉ざされていたのである。少し、苦言を呈したいものである。