の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

豐後國一之宮柞原八幡宮

2010年10月11日 03時38分21秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■境内入り口■
(12th November 2008)



★豐後國一之宮柞原八幡宮★ 大分県大分市大字八幡987

・舊社格は國幣小社。

・「いすはら」「ゆすばる」とも読み、由原八幡宮とも表記する。

・祭は仲哀天皇、應天皇、功皇后。

・社傳によると、天長四年(827)、延暦寺の僧金龜が宇佐八幡に千日間籠り、「天長七年三月三日に八幡が豐前國に垂迹する」との託を得、天長七年(830)七月七日、大分郡賀來郷に白幡が飛び渡った。金龜はこのことを朝廷に奉上し、承和三年(836)、仁明天皇の命により豐後國司大江宇久が社殿を造営した、とされている。史實かどうかは不明。

・宇佐八幡の豐後國における分祀であると考えられ、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けてきた。

・長四年(998)からは宇佐八幡と同様に三十三年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。

・國府に近いことから特に國司の崇敬を受け、中世以降は大友氏ほか歴代の領主の崇敬を受けた。

・戰國時代には領主大友義鎭(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受けたが、江戸時代には歴代府内藩主の厚い保護を受けた。

・中世以降、豊後國一之宮を称し、それ以前より称していた西寒多神社との間で近世まで論争があった。

・山麓に鎭座する火王宮に仮宮が置かれている。


■ホルトの木■
(12th November 2008)
 


■燈籠■
(12th November 2008)
 


■參道、鳥居■
(12th November 2008)



■木の大クス■
(12th November 2008)


 國天然記念物

 樹齢三千年といわれている。


■南大門(日暮門)■
(12th November 2008)
 



■舊參道■
(12th November 2008)



■樓門■
(12th November 2008)」




■幣殿、本殿■
(12th November 2008)



■拜殿、幣殿内部■
(12th November 2008)



■大友宗麟奉納の太鼓■
(12th November 2008)


 當社も、大友義鎭(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受けたとされるも、なぜ太鼓が奉納されているのかが疑問。


■廻廊■
(12th November 2008)


 
((コメント))

2008年11月12日 

 私は八幡系はあまり好きではないのだが、薦社、宇佐宮とこの柞原八幡宮だけは、なかなか好感を持っている。遠いので、もう、行くことはないだろうけれども。この三社が眞の八幡社なんでしょう。本州の八幡社は先住民族の怨念が籠っておるようだから。

村上彦四郎義光公墓所

2010年10月11日 03時33分49秒 | 歴史上人物の墓所
■村上彦四郎義光公墓所■ 
(10th October 2007)
 

★村上彦四郎義光公墓所★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山

・村上義光公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺藏王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士である。


((コメント))

2007年10月10日

 金峯山寺の階段を上ったところに村上義光の忠死の地の碑が建っているが、彼の墓が吉野宮から少し離れたところにある。何故、その地が選ばれたのか、までは知らないが・・・

 村上彦四郎義光(よしてる)は、信濃源氏村上氏の中でも最も歴史的に大きな働きをした武将であることは間違いない。子孫の村上水軍も優秀であったし、弟の子孫である村上義清は、戰國時代に結局は武田信玄に追われ、上杉謙信をっている。

 彦四郎義光は、鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇の皇子であった護良親王を守るために死んだ勇將で知られる。元弘の変の後、南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に従い、道中、敵方に奪われた錦の御旗を取り返すという活躍をしている。そして、もっとも彼の名を知らしめているのは、その最期の姿である。

 吉野城が、幕府軍二階堂貞藤の大軍に攻められ陥落する際、護良親王を逃がすために、親王の身代わりとなり、敵の大軍の前で立ち腹を切り、絶命しているのである。「天照太御子孫、武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん爲に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」の臺詞は有名である。

 この地でともに死のうとした嫡子義隆は義光に親王の行く末を見届けるように命じられ、また、滿身創痍、一人で五百騎ばかりを相手に半刻持ちこたえ、最期に自害しているのは有名な話である。

 南朝に尽くした楠木正成、正季兄弟や村上親子、新田一族、ただただ、彼らの生き様に感動するのみである。最近の、性根も座らず、命の重みも知らぬおろかな若者どもにも彼らの生き様を學んでもらいたいものだ。