■本殿■
(14th June 2008)
★陸奥國一之宮八槻都都古別社★ 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
・延喜式内社、陸奥國白河郡、都都古和氣社、名大、論社。
・舊社格は國幣中社。
・祭は味耜高彦根命、日本武尊を配祀。
・明治四年(1871)の太政官府によって、馬場の近津明が延喜式名大社の都都古和氣社とされ國幣中社に列せられた時に、八槻の近津明が抗議し論争の結果、明治十八年(1885)、両社並立という異例の処置により八槻の近津明も國幣中社に列せられた。
・社傳によると、日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大將と戰い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三が出現し、味耜高彦根命の鉾を授けたという。日本武尊は、その鉾を今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を建て味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという。
・日本武尊は東征のおり、千回戰い千回勝ったといわれ、八幡太郎義家は、社号を千勝明と改め、現在は「ちかつさん」と呼ばれている。
・久慈川に沿って、近津と呼ばれる社が三社存在し、その鎭座地から、馬場の都都古和氣神社を上之宮、八槻の都都古別社を中之宮、茨城県の近津社を下之宮とし、近津三宮ともいうらしい。
・紋は、丸に引両。
・足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あった。また、川光圀の尊崇厚く御寶の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進されたという。
■境内遠景■
(14th June 2008)
■鳥居、社號標■
(14th June 2008)
■隨門■
(14th June 2008)
■拜殿■
(14th June 2008)
■本殿■
(14th June 2008)
■末社皇朝工祖社■
(14th June 2008)
■末社熊野社■
(14th June 2008)
■社務所■
(14th June 2008)
■夫婦杉■
(14th June 2008)
■鳥居近くの豪華な民家■
(14th June 2008)
((コメント))
2008年6月14日
午前六時半に着。なかなかいいところであった。初めての東北であったので、そこらじゅうに熊が居るのを期待していたが、居そうではなく殘念だったのが、第一印象。近くに、ものすごく格好いい屋根の建物。宮司宅なのかも知れないが不明。静かで、ひんやりとしてなかなか心地よい境内であった。
(14th June 2008)
★陸奥國一之宮八槻都都古別社★ 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
・延喜式内社、陸奥國白河郡、都都古和氣社、名大、論社。
・舊社格は國幣中社。
・祭は味耜高彦根命、日本武尊を配祀。
・明治四年(1871)の太政官府によって、馬場の近津明が延喜式名大社の都都古和氣社とされ國幣中社に列せられた時に、八槻の近津明が抗議し論争の結果、明治十八年(1885)、両社並立という異例の処置により八槻の近津明も國幣中社に列せられた。
・社傳によると、日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大將と戰い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三が出現し、味耜高彦根命の鉾を授けたという。日本武尊は、その鉾を今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を建て味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという。
・日本武尊は東征のおり、千回戰い千回勝ったといわれ、八幡太郎義家は、社号を千勝明と改め、現在は「ちかつさん」と呼ばれている。
・久慈川に沿って、近津と呼ばれる社が三社存在し、その鎭座地から、馬場の都都古和氣神社を上之宮、八槻の都都古別社を中之宮、茨城県の近津社を下之宮とし、近津三宮ともいうらしい。
・紋は、丸に引両。
・足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あった。また、川光圀の尊崇厚く御寶の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進されたという。
■境内遠景■
(14th June 2008)
■鳥居、社號標■
(14th June 2008)
■隨門■
(14th June 2008)
■拜殿■
(14th June 2008)
■本殿■
(14th June 2008)
■末社皇朝工祖社■
(14th June 2008)
■末社熊野社■
(14th June 2008)
■社務所■
(14th June 2008)
■夫婦杉■
(14th June 2008)
■鳥居近くの豪華な民家■
(14th June 2008)
((コメント))
2008年6月14日
午前六時半に着。なかなかいいところであった。初めての東北であったので、そこらじゅうに熊が居るのを期待していたが、居そうではなく殘念だったのが、第一印象。近くに、ものすごく格好いい屋根の建物。宮司宅なのかも知れないが不明。静かで、ひんやりとしてなかなか心地よい境内であった。