の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

朝貴社 / 朝貴神社

2014年08月16日 23時12分11秒 | 近畿(三重、和歌山)
■本殿■
(9th March 2009)



★朝貴社★ 和歌山県東牟婁郡串本町出雲58

・舊社格は村社。

・祭は大己貴命。天照大、火火出見尊、火產靈、蛭子命、熊野夫須美、速玉男、家津御子を配祀。明治4辛未年(1871)七月の江田組戸籍人口諸役給料社寺等明細表によると、「出雲浦、朝貴明社、祭素盞男命」と記されているという。

・社傳によると、長祿二年(1458)、大職冠藤原鎌足嫡子伊美麿から二十五代の裔祇大副卜部兼倶が熊野參詣のとき、この出雲浦で出雲國の清地大社(今の須我社、祭は素盞嗚尊)の靈を夢に見て、出雲浦にその靈を勸請し、創建という。

・『紀伊續風土記』は「伊勢大宮の攝社礒邊のを祀るという」という考えをとっている。

・江戶時代には、淺木明社と稱された。


■鳥居■
(9th March 2009)
 


■本殿■
(9th March 2009)
 


■社殿背後の磐■
(9th March 2009)



■社殿蹟■
(9th March 2009)
 

・境内社若宮社であるのかどうかは不明。 


■朝貴社境内地の濱からの姿■
(9th March 2009)
 
 


■鄰接する磐と窟■
(9th March 2009)
 


■海邊の眺め■
(9th March 2009)


 


((コメント))

2009年3月9日

 潮岬の出雲が氣になっていたので、社を調べて訪問。朝貴社という。社傳にいう鎌足の息子という人は、息子ではなく、猶子である。確か、鎌足の從兄弟の子息であったように思う。しかし、鎌足に關しては、實際に、中臣氏であるかどうかが疑問であるために、本來、伊美麿が本流であり、猶子にすることで鎌足が中臣氏を演じた氣がするのは自分だけであろうか。ここには複雑な話があり、鎌足の死の直前、天智天皇により、賜姓藤原氏がされたわけであるが、實は、これは二度行われており、不比等の時代にも行われているのである。というのは、伊美麿の系統も當初、藤原を名乘ったのであるが、これを禁じて不比等の一門にのみ藤原の姓を與えるためであり、藤原と中臣とを線引きしたのである。ちなみに、中臣氏の氏である河内國一之宮枚岡社に藤原家からの參拜の記錄はなく、藤原は中臣の名を借りた別物と考えざるを得ないのである。その中臣の末裔が當社の創祀にかかわっているということにも非常に違和感を感じる。出雲國からの勸請というのに關しても正直、疑問を感じている。社傳からすると祭は素盞嗚でなければいけなく、『紀伊續風土記』の說をとれば、伊雑宮であるので、天照でなければいけない。しかし、最終的に大己貴になったということは、無視できないことであり、一番根本になった出雲のであったのかもしれない。この地域について調べてみる必要があるかもしれない。


最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。