■拜殿■
(14th September 2008)
★熊野速玉大社★ 和歌山県新宮市新宮1
世界遺產
・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、熊野早玉社、大。
・舊社格は官幣大社。
・祭は熊野速玉大、熊野夫須美大。現在、本宮や那智と相互に主祭を勸請し合い、三所權現として祭り、さらに熊野に祭られる他のを五所王子、四所明とし、合わせ祀る。
上四社
第一殿 速玉宮 熊野速玉大(伊奘諾尊、藥師如來)
第二殿 結宮 熊野夫須美大(伊弉册尊、千手觀音)
第三殿 證誠殿 家津美御子命(阿彌陀如來)、國常立命
第四殿 若宮 天照大(十一面觀音)
中四社
第五殿 禪地宮 天忍穗耳命(地藏菩薩)
第六殿 聖宮 瓊瓊杵命(龍樹菩薩)
第七殿 兒宮 彥火火出見命(如意輪觀音)
第八殿 子守宮 鸕鷀草葺不合命(聖觀音)
下四社
第九殿 一萬宮 豐斟淳命(文殊菩薩)
十萬宮 國狹槌命(普賢菩薩)
第十殿 勸請宮 埿土煮命(釋迦如來)
第十一殿 飛行宮 大斗之道命(不動明王)
第十二殿 米持宮 面足命(毘沙門天)
・全國熊野社總本宮。
・通稱「熊野新宮」。
・古くは熊野十二所權現と呼ばれ、明治の佛分離の後、熊野皇大宮、熊野早玉社を經て、熊野速玉大社の名稱となった。
・明治十六年(1883)、熊野河原の打ち上げ花火が飛び火し、紀伊藩主が天保七年(1836)より十九年かけて建てた壯麗な社殿が全燒した。
・創立年代は不詳。
・熊野最古の緣起とされる『熊野權現御垂迹緣起』によると、熊野權現は唐の天臺山から飛行して日本國鎭西の日子山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に伊豫國の石鉄の峯に遷り、六年後に淡路の遊鶴の峯へ、さらに六年後に紀伊國牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松の木の下に降臨した。そして、五十七年を經て熊野新宮の南の藏の峯に天降り、六十一年後に新宮の東の阿須賀の社の北の石淵の谷に遷って結、速玉と家津御子の二宇の社に祀られたという。
・『熊野畧記』によると、熊野權現は武天皇戌午十二月晦の夜半、インドの摩伽陀國より飛んで鎭西の彥山にとどまり、やがて四國の石鎚山に、次いで淡路の遊鶴峰に、さらに紀伊の無勞漏の切目に移り、續いて熊野の倉に、最後に阿須賀社の北の石淵に降臨、そこに鎭祭されたという。
・景行天皇五十八年(128)に現在地に奉遷したという。
・「新宮」の名稱について、熊野速玉大社の公式見解としては、元宮とする倉社に對して新しく宮を作ったので新宮と號したとしているが、一般に社殿は體山や磐座に背を向け、拜すように建てられるものであるが、全く、元宮としている倉社を拜すように建てられておらず、また、例大祭に關して、馬渡御式は主祭、御舟祭は準主祭の祭といわれながら、倉社には無緣の祭であり、その主張は疑わしい。
・地理的な關係からも倉信仰と速玉信仰は別のものであった可能性がい。祭事の性質からも、おそらくは熊野川に關係する水信仰であると考えられる。
・中央の正史や古記錄においては常に新宮、本宮の順に記されていることから、中央政府には新宮のほうが重要視されていたと考えられる。
・中世、熊野詣が流行った折、後白河上皇三十三度、後鳥上皇二十九度、鳥上皇二十三度、白河上皇十二度、待賢門院九度、修明門院六度、美門院、七條院が四度、建春門院、八條院が三度、後嵯峨上皇、道法法親王が二度、宇多上皇、花山法皇、崇上皇、龜山上皇、殷富門院、承明門院、隂明門院、大宮院、東二條院、玄輝門院、道助法親王が一度參詣されている。
■橋、社號標、鳥居■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■手水舍■
(1st January 2012)
■門■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■拜殿■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■本殿(結宮、速玉宮)■
(14th September 2008)
■中四社本殿■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■下四社本殿■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■社殿■
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■末社新宮社■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
■末社熊野惠比壽社■
(13th March 2009)
■參詣皇族一覽■
(13th March 2009)
■末社八咫烏社(向かって右)、鑰宮手力男社■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(八咫烏社)
・祭は建角見命。
(鑰宮手力男社)
・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、天手力男社、論社。
・祭は天之手力男命。
・舊社地不明。
■木なぎ■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
■熊野川■
(9th April 2009)
■御舟島■
(9th April 2009)
((コメント))
2008年9月14日
三重県熊野市にある「かんぽの宿熊野」に宿泊の予定であったので新宮まで下り、そこから、國道四十二號線で海岸線を北上する予定であったのだが、その近くに、世界遺產である熊野速玉大社が鎭座しており、兩親が行ったことない、というので立ち寄ることにした。
熊野三山の中では、一番心地よいところである。私の先祖の產田社とは因緣ある柄ではあるが。
2009年3月13日
少し小雨が降っている中、參拜。境内で詣で餅を購入。熊野本宮と違い、ここで、販賣されているおばさんは非常に愛想がよく、本宮の店のものには見習って欲しいくらいであった。
2009年4月9日
もう何度目になるか覺えていない。多分、四回目と思う。緣があると思ってきたが、實際のところ、何らかの緣があるところだが、世で言われている產田有馬氏の出自の說は多分、違っていると思われるので、どちらかというと、敵對していたところなのだろう。ま、それでも、武東征以前での一族の可能性もあるからなんともいえないのだけど。
ま、何で、今回、新宮にまた行ったか、というと、重要な位置づけであるはずの御舟島に行きそびれていたために、それを見るために行ったのである。ま、個人的に感想としては、イマイチで、やはり、周りが開發に晒されると何もかも失われていくのだな、という思いであった。
(14th September 2008)
★熊野速玉大社★ 和歌山県新宮市新宮1
世界遺產
・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、熊野早玉社、大。
・舊社格は官幣大社。
・祭は熊野速玉大、熊野夫須美大。現在、本宮や那智と相互に主祭を勸請し合い、三所權現として祭り、さらに熊野に祭られる他のを五所王子、四所明とし、合わせ祀る。
上四社
第一殿 速玉宮 熊野速玉大(伊奘諾尊、藥師如來)
第二殿 結宮 熊野夫須美大(伊弉册尊、千手觀音)
第三殿 證誠殿 家津美御子命(阿彌陀如來)、國常立命
第四殿 若宮 天照大(十一面觀音)
中四社
第五殿 禪地宮 天忍穗耳命(地藏菩薩)
第六殿 聖宮 瓊瓊杵命(龍樹菩薩)
第七殿 兒宮 彥火火出見命(如意輪觀音)
第八殿 子守宮 鸕鷀草葺不合命(聖觀音)
下四社
第九殿 一萬宮 豐斟淳命(文殊菩薩)
十萬宮 國狹槌命(普賢菩薩)
第十殿 勸請宮 埿土煮命(釋迦如來)
第十一殿 飛行宮 大斗之道命(不動明王)
第十二殿 米持宮 面足命(毘沙門天)
・全國熊野社總本宮。
・通稱「熊野新宮」。
・古くは熊野十二所權現と呼ばれ、明治の佛分離の後、熊野皇大宮、熊野早玉社を經て、熊野速玉大社の名稱となった。
・明治十六年(1883)、熊野河原の打ち上げ花火が飛び火し、紀伊藩主が天保七年(1836)より十九年かけて建てた壯麗な社殿が全燒した。
・創立年代は不詳。
・熊野最古の緣起とされる『熊野權現御垂迹緣起』によると、熊野權現は唐の天臺山から飛行して日本國鎭西の日子山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に伊豫國の石鉄の峯に遷り、六年後に淡路の遊鶴の峯へ、さらに六年後に紀伊國牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松の木の下に降臨した。そして、五十七年を經て熊野新宮の南の藏の峯に天降り、六十一年後に新宮の東の阿須賀の社の北の石淵の谷に遷って結、速玉と家津御子の二宇の社に祀られたという。
・『熊野畧記』によると、熊野權現は武天皇戌午十二月晦の夜半、インドの摩伽陀國より飛んで鎭西の彥山にとどまり、やがて四國の石鎚山に、次いで淡路の遊鶴峰に、さらに紀伊の無勞漏の切目に移り、續いて熊野の倉に、最後に阿須賀社の北の石淵に降臨、そこに鎭祭されたという。
・景行天皇五十八年(128)に現在地に奉遷したという。
・「新宮」の名稱について、熊野速玉大社の公式見解としては、元宮とする倉社に對して新しく宮を作ったので新宮と號したとしているが、一般に社殿は體山や磐座に背を向け、拜すように建てられるものであるが、全く、元宮としている倉社を拜すように建てられておらず、また、例大祭に關して、馬渡御式は主祭、御舟祭は準主祭の祭といわれながら、倉社には無緣の祭であり、その主張は疑わしい。
・地理的な關係からも倉信仰と速玉信仰は別のものであった可能性がい。祭事の性質からも、おそらくは熊野川に關係する水信仰であると考えられる。
・中央の正史や古記錄においては常に新宮、本宮の順に記されていることから、中央政府には新宮のほうが重要視されていたと考えられる。
・中世、熊野詣が流行った折、後白河上皇三十三度、後鳥上皇二十九度、鳥上皇二十三度、白河上皇十二度、待賢門院九度、修明門院六度、美門院、七條院が四度、建春門院、八條院が三度、後嵯峨上皇、道法法親王が二度、宇多上皇、花山法皇、崇上皇、龜山上皇、殷富門院、承明門院、隂明門院、大宮院、東二條院、玄輝門院、道助法親王が一度參詣されている。
■橋、社號標、鳥居■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■手水舍■
(1st January 2012)
■門■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■拜殿■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■本殿(結宮、速玉宮)■
(14th September 2008)
■中四社本殿■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■下四社本殿■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■社殿■
(9th April 2009)
(1st January 2012)
■末社新宮社■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
■末社熊野惠比壽社■
(13th March 2009)
■參詣皇族一覽■
(13th March 2009)
■末社八咫烏社(向かって右)、鑰宮手力男社■
(14th September 2008)
(13th March 2009)
(八咫烏社)
・祭は建角見命。
(鑰宮手力男社)
・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、天手力男社、論社。
・祭は天之手力男命。
・舊社地不明。
■木なぎ■
(13th March 2009)
(9th April 2009)
■熊野川■
(9th April 2009)
■御舟島■
(9th April 2009)
((コメント))
2008年9月14日
三重県熊野市にある「かんぽの宿熊野」に宿泊の予定であったので新宮まで下り、そこから、國道四十二號線で海岸線を北上する予定であったのだが、その近くに、世界遺產である熊野速玉大社が鎭座しており、兩親が行ったことない、というので立ち寄ることにした。
熊野三山の中では、一番心地よいところである。私の先祖の產田社とは因緣ある柄ではあるが。
2009年3月13日
少し小雨が降っている中、參拜。境内で詣で餅を購入。熊野本宮と違い、ここで、販賣されているおばさんは非常に愛想がよく、本宮の店のものには見習って欲しいくらいであった。
2009年4月9日
もう何度目になるか覺えていない。多分、四回目と思う。緣があると思ってきたが、實際のところ、何らかの緣があるところだが、世で言われている產田有馬氏の出自の說は多分、違っていると思われるので、どちらかというと、敵對していたところなのだろう。ま、それでも、武東征以前での一族の可能性もあるからなんともいえないのだけど。
ま、何で、今回、新宮にまた行ったか、というと、重要な位置づけであるはずの御舟島に行きそびれていたために、それを見るために行ったのである。ま、個人的に感想としては、イマイチで、やはり、周りが開發に晒されると何もかも失われていくのだな、という思いであった。