■社殿■
(13th May 2009)
★大戸社★ 千葉県香取市大戸521
・舊社格は縣社。
・祭は天手力男命とされるが、これは「大戸」の「戸」に付会したものであり、『日本地理志料』では天島船命、とし、また、『下總國舊事考』において清宮秀堅は「天島船命荒魂」であるべし、としている。これは、鹿島宮第一攝社息栖社の祭と同じである。ちなみに、息栖社、香取宮、大戸社は東西同一線上に竝ぶ。
・社傳によれば、日本武尊東征の際、蝦夷征伐祈願のために大戸の地に創建したのが始まりとされる。
・下總國一之宮香取宮の第一末社。
・老尾社と共に、香取宮大禰宜家香取氏が祀官として祭る社。
・香取宮が特別に重視する二社が大戸社と老尾社であり、大戸が多氏、老尾が物部氏という關係になるとされる。
・大戸社が延喜式内社でないのは香取宮に含まれていたからであると考えられる。
・『下總國舊事考』では、清宮秀堅が「此祠ハ香取ノ攝社ナレド、祠員三十余名アリテ、他ノ祠ト異ナリ。已ニ本宮第一ノ末社タル側ノ社ニテモ、祠員ハ一人ナリ。鹿島ノ攝社ノ第一タル息栖社ニテモ、祠員ハ一、二人ノミ。然ルヲ、香取ニ次ギ、三十余人ノ祠員アリテ、殊異ノ祭ノアリ」とあり、香取宮より特別な扱いを受けていたことがわかる。
・鹿島宮の跡宮および本殿は、大戸社の東北東三十度の夏至日の出方位にあり、鹿島宮から見ると大戸社は冬至の日没方位に當たり、さらに夏至の日没方位に鹿島宮末社大生社があり、鹿島と大戸、鹿島と大生は共に内海に隔てられていた。
■鳥居■
(13th May 2009)
■社號標■
(13th May 2009)
■參道■
(13th May 2009)
■拜殿■
(13th May 2009)
■本殿■
(13th May 2009)
■寶物庫■
(13th May 2009)
■木■
(13th May 2009)
■末社石祠群■
(13th May 2009)
((コメント))
2009年5月13日
大戸社は、道路地図にて赤字であったので行くことにしたところ。香取宮と鹿島宮を考える上で非常に重要な社のようである。
社に參った折、地元のおばあさんが声を掛けてこられた。車のナンバープレートを見て、「遠いところから參ったんじゃねえ」というようなことを言われて、少し話をした。
社の境内、人の少ない村の中にあるためか、ひっそり、ひんやりとしていて、心地のよいところであった。
(13th May 2009)
★大戸社★ 千葉県香取市大戸521
・舊社格は縣社。
・祭は天手力男命とされるが、これは「大戸」の「戸」に付会したものであり、『日本地理志料』では天島船命、とし、また、『下總國舊事考』において清宮秀堅は「天島船命荒魂」であるべし、としている。これは、鹿島宮第一攝社息栖社の祭と同じである。ちなみに、息栖社、香取宮、大戸社は東西同一線上に竝ぶ。
・社傳によれば、日本武尊東征の際、蝦夷征伐祈願のために大戸の地に創建したのが始まりとされる。
・下總國一之宮香取宮の第一末社。
・老尾社と共に、香取宮大禰宜家香取氏が祀官として祭る社。
・香取宮が特別に重視する二社が大戸社と老尾社であり、大戸が多氏、老尾が物部氏という關係になるとされる。
・大戸社が延喜式内社でないのは香取宮に含まれていたからであると考えられる。
・『下總國舊事考』では、清宮秀堅が「此祠ハ香取ノ攝社ナレド、祠員三十余名アリテ、他ノ祠ト異ナリ。已ニ本宮第一ノ末社タル側ノ社ニテモ、祠員ハ一人ナリ。鹿島ノ攝社ノ第一タル息栖社ニテモ、祠員ハ一、二人ノミ。然ルヲ、香取ニ次ギ、三十余人ノ祠員アリテ、殊異ノ祭ノアリ」とあり、香取宮より特別な扱いを受けていたことがわかる。
・鹿島宮の跡宮および本殿は、大戸社の東北東三十度の夏至日の出方位にあり、鹿島宮から見ると大戸社は冬至の日没方位に當たり、さらに夏至の日没方位に鹿島宮末社大生社があり、鹿島と大戸、鹿島と大生は共に内海に隔てられていた。
■鳥居■
(13th May 2009)
■社號標■
(13th May 2009)
■參道■
(13th May 2009)
■拜殿■
(13th May 2009)
■本殿■
(13th May 2009)
■寶物庫■
(13th May 2009)
■木■
(13th May 2009)
■末社石祠群■
(13th May 2009)
((コメント))
2009年5月13日
大戸社は、道路地図にて赤字であったので行くことにしたところ。香取宮と鹿島宮を考える上で非常に重要な社のようである。
社に參った折、地元のおばあさんが声を掛けてこられた。車のナンバープレートを見て、「遠いところから參ったんじゃねえ」というようなことを言われて、少し話をした。
社の境内、人の少ない村の中にあるためか、ひっそり、ひんやりとしていて、心地のよいところであった。