■鳥居■
(16th February 2010)
★譽田八幡宮★ 大阪府羽曳野市誉田3-2-8
・式外社。
・舊社格は府社。
・祭は譽田別命(應天皇)。仲哀天皇、功皇后、住吉三を合祀。
・傳應天皇陵(譽田山古墳)の廟形式の小社とし、出発し、皇室の保護を受けて整備拡大されたと考えられる。
・『譽田宗廟縁起』(社傳)によれば、欽明二十年(559)、河内の譽田陵に參拜した欽明天皇が、新羅に滅ぼされた任那日本府の再興實現を祈念して、後円部頂上に廟形式の南向きの小社殿を造営したのが當社の始まりとする。
・聖太子、僧行基、僧空海、菅原道眞らが參詣、しばらく滞留したと傳えられる。
・あくまで傳承であるが、平安中期の永承六年(1051)、後冷泉天皇の勅命により前九年の役の早期平定を祈念し、傳應陵の南一町の現在地に南向きの新社殿を造営したというのが、おそらく社としての當社の始まりであろう。
・鎌倉初期の建久七年(1196)、源朝が社殿および宮寺長野山護國寺伽藍を再営し、領として四十町歩を寄進して社寺領とし、螺鈿金銅飾りの輿や長刀、刀剣、馬を奉納し、それ以後、北條氏、足利氏も源氏の舊例を踏襲するようになった。
・南北朝時代から戰國時代にかけては、別當職の譽田三河入道一族によって保護されたが、享三年(1454)より始まった河内守護畠山氏の内輪爭いにより社殿、伽藍を燒失し荒廃した。さらに河内國を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。
・豐臣秀吉は社領二百石を寄進し、社殿を再建。天正十四年(1586)に社殿が燒失したため、豐臣秀が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拜殿建造中に大坂夏の陣豐臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなった。その後、江戸幕府も二百石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
■手水舎■
(16th February 2010)
■拜殿■
(16th February 2010)
■門、瑞垣、本殿■
(16th February 2010)
■境内社當宗社■
(16th February 2010)
・延喜式内社、河内國志紀郡、當宗社三座、並大、月次新嘗。
・祭は素盞嗚尊とされるが、『社要録』は不詳とする。本來は渡來系氏族當宗忌寸一族祖山陽公を祀るものと推定される。
・『河内國式私考』では祭は應天皇皇后仲媛命とされ、『或る記に曰う、當宗忌寸らの祝際する河内の村に坐す、御謚、應正后、中津山葬られる仲津媛の靈なり。后は大足彦天皇(景行)の皇子五百城入彦命の孫、當宗直の祖、品陀眞若王の女なり』とするが、系譜上でも信用に値しない。
・祭祀は絶えている。
・南北朝期の戰乱により燒失後、小祠となる。
・明治四十年(1907)、譽田八幡宮(當時は譽田社)に合祀。
・現地より北に百メートルほどのところにある字王水(當宗垣内)のところに舊地がある。そこは景行天皇皇子で成務天皇の弟である五百城入彦命一族の土地であるとともに、五世紀頃の中部朝鮮の樂浪郡からの渡來人である當宗直一族の居住地であったと可能性がいとされている。
■末社惠比須社■
(16th February 2010)
■朝鮮國王奉納燈籠、菅原道眞公祈座石■
(16th February 2010)
■南大門■
(16th February 2010)
・宮寺長野山護國寺の遺跡。
((コメント))
2010年2月16日
久しぶりに譽田八幡宮へ行ってきた。しかし、思うが、八幡の主は應天皇であるのに、何故、その總本宮が宇佐神宮であり、當社ではないのかが氣になるところである。源朝が崇敬したらしいが、これは、何か、河内源氏初代信の願文に關係しているような氣もする。社というよりは、廟ではあるが、まあ傳承を含め、こういった崇敬の経緯には、一般に天皇家の源泉を繼体ではなく應に求めている氣がしないでもない。
(16th February 2010)
★譽田八幡宮★ 大阪府羽曳野市誉田3-2-8
・式外社。
・舊社格は府社。
・祭は譽田別命(應天皇)。仲哀天皇、功皇后、住吉三を合祀。
・傳應天皇陵(譽田山古墳)の廟形式の小社とし、出発し、皇室の保護を受けて整備拡大されたと考えられる。
・『譽田宗廟縁起』(社傳)によれば、欽明二十年(559)、河内の譽田陵に參拜した欽明天皇が、新羅に滅ぼされた任那日本府の再興實現を祈念して、後円部頂上に廟形式の南向きの小社殿を造営したのが當社の始まりとする。
・聖太子、僧行基、僧空海、菅原道眞らが參詣、しばらく滞留したと傳えられる。
・あくまで傳承であるが、平安中期の永承六年(1051)、後冷泉天皇の勅命により前九年の役の早期平定を祈念し、傳應陵の南一町の現在地に南向きの新社殿を造営したというのが、おそらく社としての當社の始まりであろう。
・鎌倉初期の建久七年(1196)、源朝が社殿および宮寺長野山護國寺伽藍を再営し、領として四十町歩を寄進して社寺領とし、螺鈿金銅飾りの輿や長刀、刀剣、馬を奉納し、それ以後、北條氏、足利氏も源氏の舊例を踏襲するようになった。
・南北朝時代から戰國時代にかけては、別當職の譽田三河入道一族によって保護されたが、享三年(1454)より始まった河内守護畠山氏の内輪爭いにより社殿、伽藍を燒失し荒廃した。さらに河内國を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。
・豐臣秀吉は社領二百石を寄進し、社殿を再建。天正十四年(1586)に社殿が燒失したため、豐臣秀が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拜殿建造中に大坂夏の陣豐臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなった。その後、江戸幕府も二百石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
■手水舎■
(16th February 2010)
■拜殿■
(16th February 2010)
■門、瑞垣、本殿■
(16th February 2010)
■境内社當宗社■
(16th February 2010)
・延喜式内社、河内國志紀郡、當宗社三座、並大、月次新嘗。
・祭は素盞嗚尊とされるが、『社要録』は不詳とする。本來は渡來系氏族當宗忌寸一族祖山陽公を祀るものと推定される。
・『河内國式私考』では祭は應天皇皇后仲媛命とされ、『或る記に曰う、當宗忌寸らの祝際する河内の村に坐す、御謚、應正后、中津山葬られる仲津媛の靈なり。后は大足彦天皇(景行)の皇子五百城入彦命の孫、當宗直の祖、品陀眞若王の女なり』とするが、系譜上でも信用に値しない。
・祭祀は絶えている。
・南北朝期の戰乱により燒失後、小祠となる。
・明治四十年(1907)、譽田八幡宮(當時は譽田社)に合祀。
・現地より北に百メートルほどのところにある字王水(當宗垣内)のところに舊地がある。そこは景行天皇皇子で成務天皇の弟である五百城入彦命一族の土地であるとともに、五世紀頃の中部朝鮮の樂浪郡からの渡來人である當宗直一族の居住地であったと可能性がいとされている。
■末社惠比須社■
(16th February 2010)
■朝鮮國王奉納燈籠、菅原道眞公祈座石■
(16th February 2010)
■南大門■
(16th February 2010)
・宮寺長野山護國寺の遺跡。
((コメント))
2010年2月16日
久しぶりに譽田八幡宮へ行ってきた。しかし、思うが、八幡の主は應天皇であるのに、何故、その總本宮が宇佐神宮であり、當社ではないのかが氣になるところである。源朝が崇敬したらしいが、これは、何か、河内源氏初代信の願文に關係しているような氣もする。社というよりは、廟ではあるが、まあ傳承を含め、こういった崇敬の経緯には、一般に天皇家の源泉を繼体ではなく應に求めている氣がしないでもない。