の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

譽田八幡宮

2010年07月21日 21時57分32秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■鳥居■
(16th February 2010)
 


★譽田八幡宮★ 大阪府羽曳野市誉田3-2-8

・式外社。

・舊社格は府社。

・祭は譽田別命(應天皇)。仲哀天皇、功皇后、住吉三を合祀。

・傳應天皇陵(譽田山古墳)の廟形式の小社とし、出発し、皇室の保護を受けて整備拡大されたと考えられる。

・『譽田宗廟縁起』(社傳)によれば、欽明二十年(559)、河内の譽田陵に參拜した欽明天皇が、新羅に滅ぼされた任那日本府の再興實現を祈念して、後円部頂上に廟形式の南向きの小社殿を造営したのが當社の始まりとする。

・聖太子、僧行基、僧空海、菅原道眞らが參詣、しばらく滞留したと傳えられる。

・あくまで傳承であるが、平安中期の永承六年(1051)、後冷泉天皇の勅命により前九年の役の早期平定を祈念し、傳應陵の南一町の現在地に南向きの新社殿を造営したというのが、おそらく社としての當社の始まりであろう。

・鎌倉初期の建久七年(1196)、源朝が社殿および宮寺長野山護國寺伽藍を再営し、領として四十町歩を寄進して社寺領とし、螺鈿金銅飾りの輿や長刀、刀剣、馬を奉納し、それ以後、北條氏、足利氏も源氏の舊例を踏襲するようになった。

・南北朝時代から戰國時代にかけては、別當職の譽田三河入道一族によって保護されたが、享三年(1454)より始まった河内守護畠山氏の内輪爭いにより社殿、伽藍を燒失し荒廃した。さらに河内國を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。

・豐臣秀吉は社領二百石を寄進し、社殿を再建。天正十四年(1586)に社殿が燒失したため、豐臣秀が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拜殿建造中に大坂夏の陣豐臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなった。その後、江戸幕府も二百石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。


■手水舎■
(16th February 2010)



■拜殿■
(16th February 2010)
 


■門、瑞垣、本殿■
(16th February 2010)



■境内社當宗社■
(16th February 2010)


・延喜式内社、河内國志紀郡、當宗社三座、並大、月次新嘗。
・祭は素盞嗚尊とされるが、『社要録』は不詳とする。本來は渡來系氏族當宗忌寸一族祖山陽公を祀るものと推定される。
・『河内國式私考』では祭は應天皇皇后仲媛命とされ、『或る記に曰う、當宗忌寸らの祝際する河内の村に坐す、御謚、應正后、中津山葬られる仲津媛の靈なり。后は大足彦天皇(景行)の皇子五百城入彦命の孫、當宗直の祖、品陀眞若王の女なり』とするが、系譜上でも信用に値しない。
・祭祀は絶えている。
・南北朝期の戰乱により燒失後、小祠となる。
・明治四十年(1907)、譽田八幡宮(當時は譽田社)に合祀。
・現地より北に百メートルほどのところにある字王水(當宗垣内)のところに舊地がある。そこは景行天皇皇子で成務天皇の弟である五百城入彦命一族の土地であるとともに、五世紀頃の中部朝鮮の樂浪郡からの渡來人である當宗直一族の居住地であったと可能性がいとされている。


■末社惠比須社■
(16th February 2010)

 


■朝鮮國王奉納燈籠、菅原道眞公祈座石■
(16th February 2010)
 


■南大門■
(16th February 2010)


・宮寺長野山護國寺の遺跡。


((コメント))

2010年2月16日

 久しぶりに譽田八幡宮へ行ってきた。しかし、思うが、八幡の主は應天皇であるのに、何故、その總本宮が宇佐神宮であり、當社ではないのかが氣になるところである。源朝が崇敬したらしいが、これは、何か、河内源氏初代信の願文に關係しているような氣もする。社というよりは、廟ではあるが、まあ傳承を含め、こういった崇敬の経緯には、一般に天皇家の源泉を繼体ではなく應に求めている氣がしないでもない。

應天皇惠我藻伏崗陵

2010年07月21日 21時48分07秒 | 天皇陵、皇族墓所
■放生橋■
(16th February 2010)



★應天皇惠我藻伏崗陵★ 大阪府羽曳野市誉田六丁目

・人皇第十五代。

・謚は譽田別命、大鞆和氣命。

・功皇后の胎内に長くいたことから、胎中天皇ともいう。

・實在性が濃厚な最古の大王とも言われるが、仁天皇の条と記載の重複、混乱が見られることなどから、應仁同一説などがある。

・應天皇の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い八代以前の天皇と著しく違っている事から實在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬臺國東遷説にまつわり皇室の先祖として祀られている(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖とみなす説、日本國外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説、「廣開土王碑」に見える倭國の朝鮮進出を指揮したという説もある。

・父は先帝仲哀天皇で、母は功皇后こと息長足姫尊とされるも異説も多く、理由は異常に出産が遅れたことにある。父として「是に皇后、大と密事あり」(住吉大社の『代記』)とある住吉大や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある。このような出生の秘性は、本来、應天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。

・武東征と應東遷に関して、出発点に南九州と北九州の違いがあるが、その物語は非常に酷似している事から、同一人物という説もある。


■陵■
(16th February 2010)
 


((コメント))

2010年2月16日

 譽田八幡宮から見た應天皇陵。二度目の訪問である。大きすぎて、近くではよくわからないというのが正直な気持ち。

海士潜女社

2010年07月21日 21時44分23秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(13th October 2008)



★海士潜女社★ 三重県鳥羽市国崎町鎧崎 

・祭は潜女。海女のおべんのことという。

・土地の傳承によれば、倭姫命が國崎の鎧崎に着いた時、海女のおべんというものが海潜りをしており、採った鮑と栄螺を燒いて差し上げたところ、命は大変ご賞味になり、非常に氣に入り、「是非、大に献上するように」と言い、立ち去ったそうだが、この後、約を奉じて國崎から毎年、鮑を熨斗にして納めることになったのであるが、おべんはのちに蜑御前として祠に祭られたといい、それが、創祀傳承である。

・おべんの後裔という辻家は、近代まで生まれる子が女子ばかりで養子取りをしていたといい、たまに生まれる男子は若死にするといわれていたそうである。

・『外宮舊樂歌』に「國崎にはつづみの御前、白髭の御前、つるぎの御前、ひめ社」と歌われているが、當社はこのなかの「ひめ社」にあたる。

・天保年間、近くの松永という地の松林で偶然、古墳が発掘され、石棺のなかに、顔面骨、四肢骨などがはっきりと殘っており、村人がおべんの墳墓だと大騒ぎしたことが傳えられている。

・明治二年(1869)に海士潜女社と名稱を改めた。

・明治三十九年(1906)、境内社劔宮社、白髭大明、八雲社、鏡宮社、鎧崎社、伊雑宮社、山社、また、字宮谷の無格社八幡社、字海間谷の無格社風宮社、字大津坂の無格社土宮社、月讀宮社、その境内社稀人社および社、無格社水社を合祀、さらに翌年、字宮ノ谷の村社明社、その境内社熊野社および八柱社を合祀し、村社に列した。

・かつて、舊六月一日には、伊勢宮へ御饌料として献ずる鮑を採取する儀式「御潜事」が行われていたが、明治五年(1972)、國崎村の御贄貢進廃止とともに斷絶となった。しかし、熨斗鮑調進は古例とし、現在も引き繼がれている。

・年の初めの漁が始まる前に海女達は必ずここを訪れ一年の無事と大漁を祈願するという。


■參道と拜殿■
(13th October 2008)



■本殿■
(13th October 2008)



■伊勢宮調進所■
(13th October 2008)


 熨斗鮑作る作業が行われるところ。平成十五年(2003)十一月、秋篠宮殿下、紀子妃殿下、および眞子内親王が来られた時に紀子妃殿下が詠まれた歌が石碑になっている。


■鎧崎の海■
(13th October 2008)



((コメント))

2008年10月13日

 海士潜女社を目指し、近くまで行ったのであるが、ナビには映るものの入り口もわかりにくく、車を停める所もなく、これが社のはずなのだが、と思いつつも確信がなく、ものすごく細い漁村の道を入って行くと、シルバーカーを押したおばあさんが通りかかったので、道を尋ねたら、「ああ、皇太宮のな・・・」といって、教えてくれ、さらに、海のほうを指差して、あちらには熨斗鮑を作るところがあるから、見て行きなさい、と言ってくれたので、後ほど見に行くことにした。

 さて、社であるが、非常にこじんまりした寂しい感じのするところである。氣などはないが、村の方に見守られて手入れはされている感じだ。村の人々にとっては、おべんさんは大切な人だから。古えの社というものではないが、何となく、村人や村への訪問者を包み込んでくれそうなところではある。

源實朝墓所

2010年07月21日 21時36分31秒 | 歴史上人物の墓所
■源實朝墓所■
(11th June 2008)

 

★源實朝墓所★ 神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7 寿福寺

・鎌倉幕府三代将軍源實朝の墓所。

・歌人として知られており、金塊和歌集は有名。

・甥の阿闍梨公曉に、鶴岡八幡宮で殺され、源家將軍は斷絶。


((コメント))

2008年6月11日

 元々、軟弱なイメージがあり、好きではなかったのであるが、調べていくとこの方は非常に悲しいものを背負っていたような人である。官位の昇進を急いだのは、實朝自身、源家が自分の代で絶えることを知っていたからであるといい、彼の生存中から母政子は後鳥羽天皇に皇子を一人、将軍として鎌倉に迎えることはできないか、交渉をしていたこともわかっていることから、子供を作れない状態であったことが推測される。そんな悲しき宿命を背負った人の墓である。

相撲社

2010年07月21日 21時33分26秒 | 近畿(奈良)
■鳥居■
(18th April 2009)
 


★相撲社★ 奈良県桜井市大字穴師

・祭は野見宿禰。

・垂仁天皇の御代、野見宿禰と當麻蹶速が初めて天覧相撲を行ったとされる地に鎭座。

・現在は大兵主社の攝社という。


■本殿■
(18th April 2009)



((コメント))

2009年4月18日

 大兵主社へ向かう途中にある相撲社へも立ち寄ってきた。数年前に行ったときは、社殿にブルーシートがかけられ傾いていたのだが、元の姿に戻っているようであった。