の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

出雲大社教

2010年07月12日 01時16分28秒 | 他の神道系宗教
■殿樂殿■
(12th June 2010)



★出雲大社教★ 島根県出雲市大社町大字杵築東195

・出雲國造千家家の當主千家尊が明治時代に創設した教団。

・教派道(道十三派)の一。

・祭は大國主命で、管長は代代千家家の人間が繼承。

・明治六年(1873)の出雲大社敬講にはじまり、明治十二年(1879)には教務局を千家國造邸内に移転。明治十五年(1882)の官教導職分離令によって道教派の一つとして獨立。

・昭和二十六年(1951)に出雲大社に復帰の上、合併。現在、出雲大社を宗祠とする。

・出雲大社附属の職養成所である大社國學館では、卒業の際、社本庁の職の階位のほかに出雲大社教の教師資格も授與。


■殿本殿■
(12th June 2010)
 


■鎭守三社殿■
(12th June 2010)
 


■天滿宮■
(12th June 2010)



■祖靈社■
(12th June 2010)




((コメント))

2010年6月12日

 出雲大社の西側千家國造館のほうには出雲大社教がある。大社の宮司が千家家になっているので、自然、出雲大社と出雲大社教は同じものになってしまうものである。南北朝時代に約束を守らなかった千家家が本流となり、本流となるはずだった北島家が現在、出雲教として支流となっているのが切ない現實である。なんとなく、出雲大社が嫌いなのは、そういう空気を感じるからかもしれない。明らかに、出雲大社、出雲大社教と東側の北島國造館に入る門からで空気が変わるのだから仕方がない。ただ一つ言えるのは、出雲大社の大國主は倭大物主櫛甕魂でも大己貴命でもないということだ。

魂伊能知奴志社

2010年07月12日 00時53分28秒 | 中国(鳥取、島根)
■社殿■
(12th June 2010)



★魂伊能知奴志社★ 島根県出雲市大社町杵築東182
 
・延喜式内社、出雲國出雲郡、杵築社魂伊能知奴志社。

・祭は皇産靈。

・出雲大社境外攝社。

・通稱、命主社。


■社殿■
(12th June 2010)



■木■
(12th June 2010)
 


■眞名井遺跡■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 出雲大社から少し、東のほうにある境外攝社の命主社へといった。出雲教の本部の駐車場から見える位置にあった。社殿の前に大きな木があり、いい雰囲氣を醸し出していた。なかなか好印象。裏手に、眞名井遺跡があり、位置的にもその重要度が傳わってくる。

出雲教

2010年07月12日 00時34分39秒 | 他の神道系宗教
■大門(正門)■
(12th June 2010)



★出雲教★ 島根県出雲市大社町大字杵築東194 出雲大社 北島国造館内

・出雲國造北島家主宰の道教団。

・大國主命を主祭として、天穗日命を教祖、造化三天照大、産土を併とす。

・初代教主は北島脩好であり、以降、北島家の當主が教主を繼いでいる。

・明治四年(1871)の太政官布告により官幣大社に列格された出雲大社の少宮司に任ぜられたが、明治十五年(1882)に官の教導職兼帯が禁じられたのを受け、少宮司を辞任、出雲北島教会を設立した。翌年、道事務局に所属して、名稱を「神道出雲教会」とし、明治十八年(1885)に「道出雲教」と改めた。その後、昭和二十七年(1952)に宗教法人法に基づき宗教法人「出雲教」を設立。

・出雲教は、千家家の主宰する出雲大社教と同様に、民間の出雲信仰を基盤として廣がっているが、信者数などその規模は大社教には遠く及ばないとされる。

・出雲大社教は教派道として一派獨立していたが、出雲教は道大教に所属する一教会としての扱いであった。現在は所属していない。


■出雲教(北島國造館)東口■
(12th June 2010)
 


■四脚門■
(12th June 2010)
 


■殿■
(12th June 2010)

 

■御三社■
(12th June 2010)



・向かって左より、稻荷社、天穗日命社(出雲國造祖)、荒社。


■天滿宮■
(12th June 2010)
 


■天社■
(12th June 2010)



((コメント))

2010年6月12日

 出雲大社の東側にある北島國造館にある出雲教。實は、出雲大社三度目にしていくのは初めてとなった。元元、命主社に行くためにその方面にいっただけで、訪れるつもりではなかった、というか、余り興味なく、出雲について調べていなかったので、出雲大社教と違うものだとは思っておらなかったのである。

 出雲大社教と比べ、ひんやりとし、良き日本の部分が引き繼がれているようであり、境内の雰囲氣がよく、荘厳な印象があるが、それは、いわゆる杵築大社の氣と同一であるからであろう。



出雲國一之宮出雲大社

2010年07月12日 00時05分20秒 | 中国(鳥取、島根)
■社殿■
(30th December 2007)



★出雲國一之宮出雲大社★ 島根県出雲市大社町杵築東195 

・延喜式内社、出雲國出雲郡、杵築社、名大。

・舊社格は官幣大社。

・祭は大國主大。元の祭は大穴持命、さらに、中世の祭は素盞嗚尊で、近世以降、大國主大になったとされる。しかし、實際のところ、出雲郡の式内社として、名大社杵築大社の上位に小社大穴持社(現在所在不明)があることより、最初の祭が大穴持命であったとは考えにくい。現在所在不明の大穴持社を何らかの理由で合祀し、素盞嗚主祭時代も配祀として大己貴命の名があり、現在に知られる祭の変遷のようになった可能性もある。もしくは早い段階で大穴持社が遷宮し、杵築の大社となり、大穴持社が元宮であった可能性も否定はできない。熊野大社が天、杵築大社が地祇と古代には考えられていたというが、現在、熊野大社の祭櫛御氣野命が素盞嗚とされているところに問題があり、『先代舊事本紀』が「建速素盞嗚尊は出雲の國の熊野、杵築のの宮に坐す」としていることが、物事を混乱させているように思われる。

・記紀傳承によると、國讓りの大業を終えられた大國主(大己貴命、大穴持命)が功により天つの宮居と同じ規模の宮居に鎭まられることになり、その宮居として創建されたのが當社であるとされる。

・『日本書紀』の一書や『出雲國風土記』楯縫郡の條には、話上の美稱である「天日隅宮」あるいは「天日栖宮」の名が記されるが、實際のところ、風土記の社名列記の條や『延喜式』名帳には「杵築大社」と記され、歴史上、明治に社名を出雲大社と稱するようになるまでは、その社號で一貫している。

・杵築の地名の由來について、風土記は「杵築。郡家の西北二十八里六十歩なり。八束水臣津野命の國引き給いし後、所造天下大の宮奉えまつらむとして、諸の皇等、宮処に參り集いて杵築きたまう。故、寸付(きつき)という。龜三年、字を杵築と改む」と説いている。ところで、これによると、杵築の位置は、簸川郡斐川町の西南隅、今の佛經山の北麓にあたり、古代には、南の地域から沼澤や砂洲で隔てられた僻地であったとされる。

・『出雲國風土記』に所造天下大とまで奉られているが非常に条件の悪い僻地に鎭座しているのであるが、一つの理由としてはこのが出雲國造出雲臣の祖でないこと、また、出雲臣自体、元々この地ではなく東方十里余りの意宇の地を本貫とする一族であったことが関係しているとされる。

・記紀傳承によると、出雲國造出雲臣は天つの命を受けて出雲の國へ國讓りの説得に赴いた天穗日命の子孫ということになっている。おそらくは、出雲國造出雲臣となったのは國讓りによる功績によるものと考えられる。それ以前に大穴持命を祖として祀っていた一族の本貫がのちの出雲國出雲と推測され、「出雲」という地名の発祥地であると思われる。その後、この氏族の発展により、廣がることにより、ついには、所造天下大とまで稱え奉られるまでに至ったと考えられる。

・近世には中官級の神主たちが、一行五、六人で毎年秋から春まで、御師を行いに出て行き、配札、祈禱、道講和などを行い、その範囲は近世の終わりごろには江戸から日向の間、二十七、八か國に及んだ。

・明治の社制度改正にあたり、國家管理下の社では職による加持祈禱などが禁じられたため、布教の方策として、千家尊により出雲大社敬講、北島全孝により出雲大社崇敬講社が設立、忽ち全国に分院、分教会ができたが、これは、長年の御師活動の基盤のためであったとされる。

・國造は本來、一家であったが、建武中興直後、國造孝時が病没するや、一代限りということで所職を譲られていた三郎清孝國造が、興國四年(1343)、その職を五郎孝宗に譲った。それに対し、國造孝時は在世中、六郎貞孝に讓状を渡していたとして、このとき、國造家は二分され、千家氏、北島氏となる。以後、公に両家とも認められ、明治維新に至る。千家氏とは五郎孝宗流、北島氏は六郎貞孝流であり、経緯から、本來の正統は北島氏であるべきと考えられよう。しかし、明治以降は、宮司は千家氏が繼承している。

・現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れない仕来りを守り續けている。


■一の鳥居■
(12th June 2010)
 


■境内からみる一の鳥居■
(30th December 2007)



■二の鳥居■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 


■祓社■
(30th December 2007)


 祭は、祓戸四柱、つまり、瀬津比、速開都比、氣吹戸主、速佐須良比。


■參道■
(30th December 2007)



(12th June 2010)
 


■大國主命像■
(30th December 2007)



■三の鳥居■
(30th December 2007)


 國重要文化財

・出雲大社の域の荒垣正門に建つ銅鳥居で、寛文六年(1666)に毛利輝元の孫綱広の寄進により建造。


■拜殿■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

・古い拜殿が火事でなくなったために昭和三十四年(1959)五月に竣功となっている。
・設計は社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となる。


■八足門■
(30th December 2007)


(12th June 2010)
 

 國重要文化財

 本殿前の八足門。その奥には、樓門があり、本殿は見えない。


■末社門社■
(30th December 2007)


 國重要文化財

・玉垣内に鎭座。


■末社釜社■
(12th June 2010)
 

 國重要文化財

・祭は宇迦之御魂。


■末社東十九社■
(12th June 2010)


 國重要文化財


■末社西十九社■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

 國重要文化財


■攝社氏社■
(12th June 2010)


 國重要文化財

・祭は宮向宿禰命。


■攝社氏社■
(12th June 2010)


 國重要文化財

・祭は天穗日命。


■寶庫■
(12th June 2010)



■末社素鵞社遥拜所■
(12th June 2010)

 

((コメント))

2007年12月30日

 懐かしいところだ。一枚も写真を撮ってはいなかったが、自動車免許の合宿で、出雲に来ていたし、そのときに一日観光で出雲大社などに連れてまわってもらったのだ。そして、十四年半ぶりだった。

2010年6月12日

 午前六時にもなる前から、出雲大社の境内へ。三度目の訪問となる。朝早いのに、犬の散歩などで近隣の老人たちがちらほらと參道におられ、また、幾組かの観光客も見つけることができた。ところで、現在は建築工事中であり、最も重要な、というか、本当の出雲大社のを祀るとされる本殿後方に鎭座の攝社素鵞社にいけず、遥拜所からになったので殘念であった。

 元々、余り、出雲大社には思うところがないというか、「出雲」自体に思うところがあり、正直なところ、好印象は持っていない。祭の遍歴もさることながら、出雲話自体、出雲の話であったとは思わないからである。風土記だけでなく、記紀に関しても、それまでは口傳で歴史を語り繼いでいたわけであり、それを文書化した段階で語り繼がれていたものがそこで起こったものかどうか、となると絶対にという言葉がない。個人としては、大穴持命はもとは、三輪の倭大物主櫛甕魂であり、古代イズモ族が追われて、たどり着いた出雲の地にまた、同を祀るべき地を捜し求め、それが、大穴持社であり、そして、また、自分たちの勢力を廣げたのであろうと思い、そこにまた追うように入ってきた朝廷側勢力がその地を支配するに当たり、おそらく、友好的に統合していく過程に杵築大社の祭に大穴持命を遷したように思わざるを得ない。そして、風土記傳承は、今の出雲の地、その前にいた、紀伊、大和での傳えられた傳承すべてを記したものと思うのである。