■社殿■
(30th December 2007)
★出雲國一之宮出雲大社★ 島根県出雲市大社町杵築東195
・延喜式内社、出雲國出雲郡、杵築社、名大。
・舊社格は官幣大社。
・祭は大國主大。元の祭は大穴持命、さらに、中世の祭は素盞嗚尊で、近世以降、大國主大になったとされる。しかし、實際のところ、出雲郡の式内社として、名大社杵築大社の上位に小社大穴持社(現在所在不明)があることより、最初の祭が大穴持命であったとは考えにくい。現在所在不明の大穴持社を何らかの理由で合祀し、素盞嗚主祭時代も配祀として大己貴命の名があり、現在に知られる祭の変遷のようになった可能性もある。もしくは早い段階で大穴持社が遷宮し、杵築の大社となり、大穴持社が元宮であった可能性も否定はできない。熊野大社が天、杵築大社が地祇と古代には考えられていたというが、現在、熊野大社の祭櫛御氣野命が素盞嗚とされているところに問題があり、『先代舊事本紀』が「建速素盞嗚尊は出雲の國の熊野、杵築のの宮に坐す」としていることが、物事を混乱させているように思われる。
・記紀傳承によると、國讓りの大業を終えられた大國主(大己貴命、大穴持命)が功により天つの宮居と同じ規模の宮居に鎭まられることになり、その宮居として創建されたのが當社であるとされる。
・『日本書紀』の一書や『出雲國風土記』楯縫郡の條には、話上の美稱である「天日隅宮」あるいは「天日栖宮」の名が記されるが、實際のところ、風土記の社名列記の條や『延喜式』名帳には「杵築大社」と記され、歴史上、明治に社名を出雲大社と稱するようになるまでは、その社號で一貫している。
・杵築の地名の由來について、風土記は「杵築。郡家の西北二十八里六十歩なり。八束水臣津野命の國引き給いし後、所造天下大の宮奉えまつらむとして、諸の皇等、宮処に參り集いて杵築きたまう。故、寸付(きつき)という。龜三年、字を杵築と改む」と説いている。ところで、これによると、杵築の位置は、簸川郡斐川町の西南隅、今の佛經山の北麓にあたり、古代には、南の地域から沼澤や砂洲で隔てられた僻地であったとされる。
・『出雲國風土記』に所造天下大とまで奉られているが非常に条件の悪い僻地に鎭座しているのであるが、一つの理由としてはこのが出雲國造出雲臣の祖でないこと、また、出雲臣自体、元々この地ではなく東方十里余りの意宇の地を本貫とする一族であったことが関係しているとされる。
・記紀傳承によると、出雲國造出雲臣は天つの命を受けて出雲の國へ國讓りの説得に赴いた天穗日命の子孫ということになっている。おそらくは、出雲國造出雲臣となったのは國讓りによる功績によるものと考えられる。それ以前に大穴持命を祖として祀っていた一族の本貫がのちの出雲國出雲と推測され、「出雲」という地名の発祥地であると思われる。その後、この氏族の発展により、廣がることにより、ついには、所造天下大とまで稱え奉られるまでに至ったと考えられる。
・近世には中官級の神主たちが、一行五、六人で毎年秋から春まで、御師を行いに出て行き、配札、祈禱、道講和などを行い、その範囲は近世の終わりごろには江戸から日向の間、二十七、八か國に及んだ。
・明治の社制度改正にあたり、國家管理下の社では職による加持祈禱などが禁じられたため、布教の方策として、千家尊により出雲大社敬講、北島全孝により出雲大社崇敬講社が設立、忽ち全国に分院、分教会ができたが、これは、長年の御師活動の基盤のためであったとされる。
・國造は本來、一家であったが、建武中興直後、國造孝時が病没するや、一代限りということで所職を譲られていた三郎清孝國造が、興國四年(1343)、その職を五郎孝宗に譲った。それに対し、國造孝時は在世中、六郎貞孝に讓状を渡していたとして、このとき、國造家は二分され、千家氏、北島氏となる。以後、公に両家とも認められ、明治維新に至る。千家氏とは五郎孝宗流、北島氏は六郎貞孝流であり、経緯から、本來の正統は北島氏であるべきと考えられよう。しかし、明治以降は、宮司は千家氏が繼承している。
・現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れない仕来りを守り續けている。
■一の鳥居■
(12th June 2010)
■境内からみる一の鳥居■
(30th December 2007)
■二の鳥居■
(30th December 2007)
(12th June 2010)
■祓社■
(30th December 2007)
祭は、祓戸四柱、つまり、瀬津比、速開都比、氣吹戸主、速佐須良比。
■參道■
(30th December 2007)
(12th June 2010)
■大國主命像■
(30th December 2007)
■三の鳥居■
(30th December 2007)
國重要文化財
・出雲大社の域の荒垣正門に建つ銅鳥居で、寛文六年(1666)に毛利輝元の孫綱広の寄進により建造。
■拜殿■
(30th December 2007)
(12th June 2010)
・古い拜殿が火事でなくなったために昭和三十四年(1959)五月に竣功となっている。
・設計は社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となる。
■八足門■
(30th December 2007)
(12th June 2010)
國重要文化財
本殿前の八足門。その奥には、樓門があり、本殿は見えない。
■末社門社■
(30th December 2007)
國重要文化財
・玉垣内に鎭座。
■末社釜社■
(12th June 2010)
國重要文化財
・祭は宇迦之御魂。
■末社東十九社■
(12th June 2010)
國重要文化財
■末社西十九社■
(30th December 2007)
(12th June 2010)
國重要文化財
■攝社氏社■
(12th June 2010)
國重要文化財
・祭は宮向宿禰命。
■攝社氏社■
(12th June 2010)
國重要文化財
・祭は天穗日命。
■寶庫■
(12th June 2010)
■末社素鵞社遥拜所■
(12th June 2010)
((コメント))
2007年12月30日
懐かしいところだ。一枚も写真を撮ってはいなかったが、自動車免許の合宿で、出雲に来ていたし、そのときに一日観光で出雲大社などに連れてまわってもらったのだ。そして、十四年半ぶりだった。
2010年6月12日
午前六時にもなる前から、出雲大社の境内へ。三度目の訪問となる。朝早いのに、犬の散歩などで近隣の老人たちがちらほらと參道におられ、また、幾組かの観光客も見つけることができた。ところで、現在は建築工事中であり、最も重要な、というか、本当の出雲大社のを祀るとされる本殿後方に鎭座の攝社素鵞社にいけず、遥拜所からになったので殘念であった。
元々、余り、出雲大社には思うところがないというか、「出雲」自体に思うところがあり、正直なところ、好印象は持っていない。祭の遍歴もさることながら、出雲話自体、出雲の話であったとは思わないからである。風土記だけでなく、記紀に関しても、それまでは口傳で歴史を語り繼いでいたわけであり、それを文書化した段階で語り繼がれていたものがそこで起こったものかどうか、となると絶対にという言葉がない。個人としては、大穴持命はもとは、三輪の倭大物主櫛甕魂であり、古代イズモ族が追われて、たどり着いた出雲の地にまた、同を祀るべき地を捜し求め、それが、大穴持社であり、そして、また、自分たちの勢力を廣げたのであろうと思い、そこにまた追うように入ってきた朝廷側勢力がその地を支配するに当たり、おそらく、友好的に統合していく過程に杵築大社の祭に大穴持命を遷したように思わざるを得ない。そして、風土記傳承は、今の出雲の地、その前にいた、紀伊、大和での傳えられた傳承すべてを記したものと思うのである。