の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

七瀧八壺

2010年07月20日 01時06分36秒 | 
■七瀧八壺下段部■
(10th July 2010)
 


★七瀧八壺★ 奈良県吉野郡東吉野村大字大又

・段瀑、落差約五十メートル。

・環境省が選定した「平成の名水百選」に選定される。


■七瀧八壺上段部■
(10th July 2010)



((コメント))

2010年7月10日

 東吉野村にはいくつか有名な瀧があるが、車で簡単にいける瀧ではおそらくもっとも美しい瀧がこの七瀧八壺。上に上ると水にも直接触れることのできる箇所に着き、マイナスイオンで淨められるようなところ。時々行くが、今回は、雨の翌日であり、水量が少し多めであったのでよかった。


丹生川上社

2010年07月20日 00時48分44秒 | 近畿(奈良)
■鳥居、社號標■
(10th July 2010)



★丹生川上社★ 奈良県吉野郡東吉野村大字小968

・延喜式内社、大和國吉野郡、丹生川上社、名大、月次新嘗。

・二十二社下八社の一。

・舊社格は官幣大社。

・本來の祭は、丹生川上(『六國史』)。古來、朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水であったので、これを記紀話に見える罔象女や龗に充てるようになった。平安時代初め頃から「雨師」とも稱されるようになった。

・現在は、本殿に罔象女。伊邪奈岐命、伊邪奈美命を配祀。東殿に大日孁貴命、八意思兼命、誉田別命。西殿に開化天皇、上筒男、大國主命、事代主命、綿津見、菅原道眞を祀る。大正十一年(1922)までは大穴貴、表筒男命、伊邪奈伎命を祭としていた。

・社傳に因れば、鎭座地は武天皇が天の教示によって天地祇を祀り、戰勝を占った地とされ、白鳳四年(675)に罔象女を御手濯川(見川)南岸の現攝社丹生社の地に奉齋し、その後、現在地に遷座したという。實際のところは、この地は宇陀市榛原区雨師鎭座の式内丹生神社の地に比定されている。

・寛平七年(895)の太政官符(『類聚三代格』所収)には、當時の丹生川上社の祝や禰宜の解を引き、『名本紀』という書に「『人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう』との託により創祀した」との傳えがあることを記す。

・慶安三年(1650)の造営の上梁文には、當初の鎭座地に丹生社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎭守に倣って「蟻通明」と改稱した旨が記されている。

・中世以來、安土桃山時代まで小川氏が主職を襲い、また別當寺院として金剛峯寺末寺の摩尼山大乗院が奉仕した。

((丹生川上社))

 上社 吉野郡川上村字宮の平
 中社 吉野郡東吉野村小
 下社 吉野郡下市町長谷

・延喜式内社、大和國吉野郡、丹生川上社、名大の論社が三社あり、明治政府により、色々な経緯があり上、中、下社とされた。
・延喜式名帳によると、雨師社と号されたとある。
・卜部兼倶撰といわれる『二十二社注式』に、人皇第四十代天武天皇白鳳四年(675)に創建とある。
・仁安二年(1167)、大倭歳繁が國衙の命で注進した『大倭社注進状』によると、丹生川上のに奉幣のとき、大和社の主が勅使に隨行すると『延喜式』に定められているのは、大和社の別宮であるから、とされており、實際、吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥(四)年 (675)に垂迹し、大和社の別宮になったと記される。
・大和社末社雨師明(現高龗社)のタカクラオカミを移した社と傳承も殘る。
・丹生川上社下社の社前を流れる丹生川は芳野水分峯に源を発し、その水域には古代寺院の堂原寺跡や丹生川上の雨師を祀る大日川の丹生社、宇智の式内社丹生川社などの諸社が点在している。これが、下社を式内社丹生川上社とする有力な根拠の一つとなる。
・丹生川上社の所在について、林羅山は『本朝社考』にて、所在不明としているが、白井宗因が『社啓蒙』『社便覧』において「下市之傍山中丹生村」にあるとして以來、『大和志』、度會延經の『名帳考證』などの諸書すべてが現在の下社に比定し、これにより明治四年(1871)、式内社として官幣大社に列した。
・『類聚三代格』寛平七年(895)の太政官符が大和國丹生川上雨師社界地の禁制の事として、社地の「東限を塩匂、西限は板波瀧、南限は大山峯、北限は猪鼻瀧」としていることから、明治七年(1874)、現下社の少宮司江藤正澄は同社がこの四至に合致しないと稱し、北限の猪鼻瀧は小川郷内萩原村の瀧であると説き、川上村迫所在の社を式内社に比定、下社を口の宮、後者を奥の宮とした。明治二十九年(1896)、内務大臣告示にて口の宮が下社、奥の宮を上社とし、上社も官幣大社に列した。
・大正四年(1915)、森口奈良吉は『丹生川上社考』を著し、太政官符の四至の東限塩匂が大豆生の塩和田、西限板波瀧が小川村と國栖村との境界付近のイトサミの転訛、南限大山峯は小川村と川上村境界にある南方の峯、北限猪鼻瀧は小川村萩原下と考證し、新たに小川村の蟻通社を式内社に比定した。さらに傍証とし、同社の祭木像が藤原期初期のものである事、丹生社銘を持つ弘長三年(1263)の石燈籠があること、『春日大社文書』の宇陀郡田地帳に「雨師庄、田五町、吉野郡小河雨師明領」とあること、前出の太政官符にいう、供御にことよせてたびたび地を汚し崇りを受けた「國栖戸百姓竝浪人」の住地に近接していることを挙げ、内務省考證官の實地調査を求め、その結果、認められた。
・大正十一年(1922)、蟻通社が内務省告示により丹生川上社中社とし、官幣大社に列され、同時に祭増加の形で上、中、下三社を合一、中社を中心的社と定め、社務所を置いた。
・丹生川上社への祈雨、止雨の奉幣遣使の記録は室町期以後、衰退し、ついに社地の所在不明とまでなった。


■拜殿■
(10th July 2010)
 


■本殿、西殿■
(10th July 2010)
 

 國重要文化財

・本殿は三間社流造で南面し、その左右に配祀神を祀る東殿と西殿が鎭座する。
・文政十二年(1829)の建築。


■攝社丹生社■
(10th July 2010)
 

 國重要文化財

・彌都波能賣命を祀る。
・御手洗川対岸の舊社地に鎭座するため、「本宮」とも稱される。
・大正四年(1915)の「社祭変更竝に社名変更許可書」に、當社の「御靈代ヲ本社ニ奉遷シ、丹生社ニハ適當ノ御靈代ヲ奉安スルコト」とある。


((コメント))

2010年7月10日

 久しぶりに行ってきた。いつになく、いい氣を感じたが、理由はわからない。なんとなく歓迎されていたように思う。雨の後だったので、龍がいたのかもしれない。

宇太水分社上宮

2010年07月20日 00時22分08秒 | 近畿(奈良)
■本殿三殿(國寶)■
(13th October 2008)



★宇太水分社★ 奈良県宇陀市菟田野区古市場字宇太野245


・延喜式内社、大和國宇陀郡、宇太水分社、大、月次新嘗、論社。

・祈雨祭八十五座の一。

・舊社格は縣社。

・祭は第一殿に天水分大、第二殿に速秋津彦大、第三殿に國水分大。

・宇陀市榛原区下井足の宇太水分社を下宮、當社を上宮とする。

・惣社水分社を上社、當社を中社、下井足の宇太水分社を下社とも言う。

・芳野川に沿って、「惣社水分社」は童體、「上宮」は男體、「下宮」は女體と言われる。

・宇太水分社は、大和四水分社の一つ。

・『社記』『宇太舊事記』『水分由來集』によると、玉岡水分社、玉岡上宮、西殿上宮、上の水分社とも呼ばれていたという。

・芳野川右岸水分山(玉岡山)麓に西面して鎭座。

・早くから朝廷の崇敬篤く、『新抄格勅符抄』によると、すでに平城天皇大同元年(806)の牒をもって封一戸が奉られ、承和七年(840)十月七日に從五位下(『續日本後紀』)、貞觀元年(859)正月二十七日に正五位下(『三代實録』)と階を進められた。

・『水分社記』の中の『水分由來集』は佛家の手によるもので付會の説が多いと考えられるが、當社と下井足の宇太水分社をもって二社一宮とする説が記されている。但し、『延喜式』名帳は一座。

・下井足の宇太水分社は芳野川と宇陀川の合流点にあたり、水分にふさわしい場所として、當社の分靈を祀り、後に二社ともに隆盛となるや、本末爭いをせぬよう二社一宮説が作爲されたのでは、と小田基彦は推測している(『日本の神々 社と聖地 4 大和』)。

・興寺金藏院實嚴の日記『細細要記』には、後村上天皇が正平六年(1351)五月、唐招提寺より三輪を經て宇太郡に入り、宇太水分宮に移り、さらに吉野に潜幸したと記される。これは、下井足の宮とする傳承があるが、實際のところ、當社の南に南朝方吉田豐後守の城跡と傳えられるところがあり、『宇陀郡史料』に「本郡の人薄木祐藏氏所蔵の本書に南帝御寄進の石燈籠二基存在せしも、大洪水の際流亡せりとあり」と記され、また、後村上天皇の孫尭成親王が應永十八年(1411)三月二十三日に梵鐘を寄進していることなどにより、南朝方と深い關係を持つ當社のことであろうと考えられる。


■鳥居■
(13th October 2008)



■二代目朝杉■
(13th October 2008)

 
 眞僞のほどはわからぬが、立札によると、源朝が幼少のみぎり、當社に詣で、この杉苗が大きく育つことがあれば自分も天下の大將軍になることができるであろうと、占うために杉苗を植えさせたのが初代という。

■拜殿■
(13th October 2008)

(10th July 2010)
 


■本殿三殿(國寶)、境内社宗像社(國重要文化財)、春日社社殿(國重要文化財)■
(20th November 2008)

(10th July 2010)



 國寶

・向かって右から第一殿、第二殿、第三殿。
・三棟はいずれも、一間社隅木入春日造、檜皮葺。
・第一殿と第三殿は鎌倉時代の元應二年(1320)の建造、第二殿は永禄元年(1558)に修復されたことが棟木銘よりわかる。
・三棟は等間隔で横一線上に竝んでおり、「みくまり造り」という。
・建造年代の明らかな隅木入春日造としては最古のものである。

 國重要文化財

・向かって右の二社は境内社。向かって右側が宗像社、左側が春日社。
・春日社社殿は室町時代中期、宗像社社殿は室町時代後期のものとされる。


((コメント))

2008年10月13日

 なかなかいい噂を聞いていたのだが、いいところであった。國寶の本社社殿三殿に、國重要文化財の境内社二社の社殿も見所ではあるが、木木の氣がすばらしい。

 しかし、このような山奥で朝の傳承は信じかねるが面白い。

2008年11月20日

 相変わらず、氣がよい。

2010年7月10日

 せっかくなので、久久に國寶の社殿を拜むべく、宇陀水分社上宮へと行った。さすがに美しい。そういえば、境内に子連れのおば様がいたが、小学生の男の子たちも興味深そうに社殿を見ていたのが印象深いものであった。我我がガキのころはまったく興味がなかったのに。