かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

共立されてスタートした邪馬壹国(邪馬台国)は、国事国体は『栗』で、政治政体は『粟殿』でした

2020-01-13 00:15:14 | 邪馬壹国

2020年1月13日(月)

邪馬壹国(邪馬台国)の女王が住む宮はで、首都は殿でした。

男王 大国主命=イエス・キリストがAD99年11月17日に逝去してから3年後、倭国大乱になりました。

それから78年後、イエス・キリストの血を引く卑弥呼が女王として共立されて邪馬壹国がスタートしました。

そしてイエス・キリストの墓やイエス王家の方々の墓守が女王卑弥呼の務めでしたから、卑弥呼が住む宮は、でした。

西の宮への入り口が西宮であり上り口が仁川であり、そこから陸路一か月かけて行きつくところがでした。

邪馬壹国(邪馬台国)は、最初から、国事国体は『栗』で、政治政体は『粟殿おおとの・奈良県桜井市)でした。

ちなみに、粟殿の出先機関は、粟鹿である。

邪馬壹国はオリオン座を模して実に見事に設計されていました。

船の航路は仁川から仁川でした。

 

魏志倭人伝に表記されている距離は、全て一里が短里77mで合致する

 


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參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里 ・・ オリオン座を模して設計された邪馬壹国と合致する

2019-12-25 02:21:22 | 邪馬壹国

2019年12月25日(水)

 

邪馬壹国への航路は、一部国防のために福吉 福岡 福津と陸路でしたが、分かりやすく言えば 仁川(インチョン)から仁川でしたね。

 

 

 

私  :「卑弥呼さん、陸路1か月のコースを詳しく教えてくださいませ」

卑弥呼さん :「いいですわよ」

・・と、言うことで教えてもらったのが、下の図ですよ。

仁川から宝塚、三田 篠山 丹波 春日 福知山 朝来 和田山 生野 そして、女王の住むとところが 「」でした。

地理院地図の簡易計測で凡そ片道190㎞ほどですから、実際にはもう少し増えるでしょうね。

んん~~ん、オリオン座の鼓の外周は376㎞

陸路1ヶ月の往復の距離は380㎞、一里を「短里」77mで計算すると・・

 

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

・・なんとぉ! 「周旋可五千餘里」にピッタシカンカンです!!

帰りは、現在では南へまっすぐ下りて姫路まで出れば簡単ですが、卑弥呼さんの時代はそうすることはできませんでしたから、来た道を帰るしかありませんでした。

オリオン座の中に落とし込んで見るとピッタリですねぇ。

ピンクの部分が邪馬壹国です。

冬の大三角形

 

べテルギウス ・・・ イエス・キリストの墓 836m 赤い土で覆われています。べテルギウスは赤く輝いています。

 

ベラトリクス  ・・・ 弥仙山(舞鶴市)664m

 

リゲル     ・・・ 亀山(奈良県曽爾村)849m

 

サイフ     ・・・ 竜王山(奈良県)618m

メイサ     ・・・ 磯砂山(京都府)661m

 

三ツ星は、 ミンタカ ・・・ 交野山     アルニラム ・・・ 生駒山    アルニタク ・・・ 信貴山

 

徳島の太龍寺大師堂正面の彫り物に空海様は、邪馬壹国の成立ちを皆さんに教えていましたねぇ。

オリオンとシリウスでしたよ。

卑弥呼の墓の山は婀月山(あづきやま)と言います。

卑弥呼さんの仕事は、ベテルギウスに眠るイエス・キリストや四男の懿徳天皇やイエス王家の方々の墓守でしたね。

 

「卑弥呼さん、ご苦労さまでしたねぇ」と私。

卑弥呼さん :「ところでいろんなこと誰から教えてもらったんですか」

私 : 「空海様です」・・と。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

九里きて、栗行って、九里もどる。

朝日かがやき、夕日が照らす。

ない椿の禰に照らす。

 

(朝日も夕日も照らす山頂に陵墓があることを教え、ない椿の禰とは、71歳で亡くなった卑弥呼の御霊のことを教えていました)

 

生野の谷から何が来た。

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。

三つの宝は、庭にある。

生野の空から、御竜車が三つ下る。

 

 面白いですねぇ。徳島の祖谷地方に伝わる謎の神楽歌は、聖地神河町の栗のことを教えていましたね。

なんとこちらの9里は、1里435mの「長里」を用いていました。

生野の境界からなんと「」まで3915mとピッタリなのです!!

そしてこの歌から読み解ける重要なことは、又来た道を帰らなくてはならないということを告げていました。

邪馬壹国は、政治政体が奈良県纏向桜井市粟殿(2024年1月18日加筆訂正)国事国体は播磨国風土記に記された埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町ので、女王卑弥呼が居てた都でした。


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卑弥呼おばさんとの会話からの予感

2019-12-23 14:27:45 | かごめかごめの真実とは

2019年12月24日(火)

私 : 「卑弥呼さんは、たいへんな美人だったそうですねぇ」

卑弥呼さん :「まぁ~だれがそんなことを言ってるんですか」

私 : 「卑弥呼さんは、琴をよく弾いて居られたらしいですね」

卑弥呼さん : 「どこでそんなこと聞かれたんですか」

私 : 「卑弥呼さんの陵墓は、こと座の主星ベガでしたね

卑弥呼さん : 「よくもまぁ~・・正解ですわよ。でも・・どうしてそれを・・」

私 : 「でも・・、満たされない寂しさを味あわれたのですね ・・ ・・ 」

卑弥呼さん : 「エッ!何のことですの?」

私 : 「私には想像できかねる世界です・・ ・・ 」

卑弥呼さん : 「奥歯に挟まった様な・・何を言わんとされているのです??」

私 : 「ご両親のお顔をご存じでないと・・」

卑弥呼さん : 「どこの誰からそんなことを・・」

私 : 「生野の傍の川渕の小道を、妹さんと弟さんと3人で「」まで連れて来られたんですよね」

卑弥呼さん : 「エ~~~ッ! そのようなことも・・」

私 : 「ハイ、知っています」

卑弥呼さん :「では・・私に男の子がいたこともご存じですの?」

私 : 「ハイ、その経緯も聞いて居ります」

卑弥呼さん : 「・・・・・」


私 : 「大変なお方の血を受け継いでおられたばかりに・・」

卑弥呼さん : 「これも定めと思えるまでには時間もかかりましたが・・」

私 : 「イエス様の聖杯を石の宝殿の巨石の下に御隠しになられたのでしたね」

卑弥呼さん : 「そうそう、そうでしたわね」

私 : 「もう抜き取られていますかねぇ」

卑弥呼さん :「どのようなことになるのでしょうかねぇ・・」

私 : 「生野の地下神殿にももう来年あたりには密かに辿り着く工程のようですし・・」

卑弥呼さん :「どのようなことになるのでしょうかねぇ・・」

私 : 「パパさまとやらももうソワソワで、やってこられましたねぇ」

・・そして

広島と長崎に投下された原爆によってもたらされた破壊が二度と繰り返されないよう阻止するために必要なあらゆる仲介を推し進めてください」と安部総理大臣に告げたのでしたね

卑弥呼さん :「あのことこそお告げよ」・・と。

卑弥呼の墓と石の宝殿と美女山は、2:1:√3の直角三角形を描きます。

親不知と美女山と卑弥呼の墓は二等辺三角形を描きます。

卑弥呼の墓と美女山と土塔は、直角三角形を描きます。

卑弥呼の墓と土塔琴弾山も直角三角形を描きます。

・・・

私 : 「以前・・、私が何を成したかを世界中の人達に伝えてください!と言って居られましたが・・ごめんなさいね、忘れてはいませんから・・」

卑弥呼さん : 「大変でしょうが、よろしくお願いいたしますね」

私 : 「頑張ります!」

卑弥呼さん : 「ところで、いったい誰から聞かれたのですか!?」・・と。


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卑弥呼さんのことを椿の花で表現します

2019-10-15 05:11:10 | かごめかごめの真実とは

2019年10月15日(火)

「椿の種を買い取ってどうするんですか!?」


「はい、古代からの山の再生復活と、聖地神河ならではの特産物を創りたいと思います」

椿の花は、卑弥呼を表す花です。

卑弥呼は、ユダヤのお姫様でもあります。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

 

九里きて、栗行って、九里もどる。

 

朝日かがやき、夕日が照らす。

ない椿の禰に照らす。

 

生野の谷から何が来た。

 

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

 

伊勢の御宝、積みや降ろした。

三つの宝は、庭にある。

 

生野の空から、御竜車が三つ下る。


堅かった椿の実がはじけると、ユダヤの紋章の形になります。

そして、月で表現したりもします。今日15日の朝の月です。


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秦河勝の墓は古代大王たちが眠る直角三角形の重心に造営されている

2019-07-08 15:22:14 | かごめかごめの真実とは

2019年7月9日(火)

神河町長谷 山中には、女王卑弥呼の山城の城壁である神籠石が残っています。

私は来週、千島学説を実践している方々の集まり山口県へと行くことになっていますが、「山口県に何があるのだろう??」とネットで調べてみたら、山口県田布施町にも石城山神籠石(いわきさんこうごいし)という遥か古墳時代以前に造られたと思われる謎の石組みがあることを教えられました。

それでいつものように地理院地図と向かい合うと、いつものように睡魔が襲ってきて・・、目が覚めるとすぐさま図形が出来上がりました。

結論です!

下の図形は、石城山には古代大王の墓があることを教えています。

石城山神籠石のポイントは、モーセの墓と天照大神=アブラハムの父・テラの墓である神野山王塚との三点で、5:12:13の整数比の直角三角形を描きます。

見事です!

そしてこの直角三角形の重心となる場所が兵庫県赤穂市の生島であり、この島を秦河勝はお墓にしています。

日本列島の中で、これら大王(大神)たちに守られて眠りに就く場所を秦氏は選定したのでしょう。

そして・・島の名は、蘇えり生まれかわりを約束するかのように「生島」と呼ばせたと聞こえてきます。

見事です!!

石城山に眠る古代大王とは何と呼ばれた神様なのだろうか・・??

 

 


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法隆寺の建築計画には驚きを隠せません

2019-02-26 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2019年2月26(火)

 法隆寺の基本計画と建物の配置には唖然とさせられます。

山口にある空海様のお墓望海山)、アブラハムの父、テラ(日本名、天照大神)の墓神野山)を東西の基本ラインとして、そのラインから北方向に、

西円堂蘇我入鹿(=聖徳太子)の墓松尾寺の補陀落山)

金堂は第五十代桓武天皇の墓(京都高雄山428.4m)

夢殿藤原鎌足のお墓鎌足公古廟から移し替えられた交野山の北方向にある場所)

建物の方角には1度の狂いもありません。 見事です!

そして、モーセの墓、モーセの御霊を移し替えた場所イエス・キリストの墓卑弥呼の墓マリアの墓・・

それに、聖徳太子を祀る広隆寺へも手を合わせるようになっています。

上御堂は広隆寺に手を合わす設計になっていて、上御堂と広隆寺とマリアの墓は見ごとに直角三角形を描きます。

どれを取っても見事です。

又、この法隆寺の位置決めは、ここから磁北方向にある京都府の675m地点を基準ポイントとして位置出ししていることも分かりました。

それと・・創建当初の若草伽藍の位置と方角が教えるものも又、イエス・キリストの墓を三角法でズバリ教えていました。

我が国の礎を築かれた偉大な現人神のお墓を全て、現在の形になる法隆寺を設計建築した人達は知っていたということです。

空海様も間違いなく知っていた人物の一人だったということです。

法隆寺が教えている情報は、尊いものであります。

どの場所でどこを向いて祈ると誰に手を合わすようになっているかを知ることで、必ず心が豊かになることでしょう。

もう意図的に隠すために論争させ続ける邪馬台国論争も意味をなしません。

政治政体が奈良巻向で、国事国体は播磨国風土記に記された「埴丘の里、現在の兵庫県神崎郡神河町でした。

卑弥呼はイエスの直系であるがゆえに7.80年続いた戦乱を終息させるために共立された女王でした。

女王とは名ばかりで、イエスや王家の方々の墓守が務めでした。

このような全ての事実を第五十代桓武天皇達は知っていたわけですし、二葉葵を紋章とする人たちも、三つ葉葵の徳川家の方々もハートの形の意味を知っています。

幕末までは、間違いなく先祖供養はされています。

このまま知って知らぬふりをし続ける怖さを関係者は理解しているのかどうなのか・・。

神の世界にも限度があるようです。


3月9日、歴史の真実が分かるように残してくれた行基さんのお墓へと手を合わせに行ってから、法隆寺です。

そして、蘇我入鹿さんに手を合わせに行きます。

残りの空席は5名となりました

 

   

真魚の山(空海様のお墓)は、どこを向いてるのかなぁ~と思っていましたが、ピッタリと法隆寺を向いていましたねぇ。

それにしても・・、可愛いですねぇ。 どうやって造るんでしょうかねぇ。


 


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兵庫県には昆陽池と言って日本列島を浮かべた池があります

2018-10-23 01:03:00 | 邪馬壹国

2018年10月

 全国でいちばん古墳の数が多い県は兵庫県である。

その数はじつに1万6577基で、2位が千葉県の1万3221基。

3位が鳥取県の1万3094基、4位が福岡県の1万1311基、5位が京都府の1万1310基となっている。

全国的には合計16萬1560基の古墳があるので、兵庫県が約10%を占めているという。

また、古墳だけでなく、遺跡の数と銅鐸出土数も兵庫県がナンバーワン

遺跡所在件数は、兵庫県2万5406、2位の千葉県が2万5131、3位の福岡県が1万6968。

銅鐸出土数は兵庫県で56点。以下、島根県54点、徳島県が42点と続く。

さらに、日本一ため池の多い県も兵庫県である。

兵庫県4万3347、広島県2万183、香川県1万4619、大阪府1万1105、山口県1万636。

2位の広島県の約2倍である。

古墳がたくさんあって、その横にはため池があって、遺跡もあって、銅鐸もたくさん出土している県が兵庫県ということです。

これらの大規模な土木工事を行うには、測量器械がなくてはなりませんが、銅鐸がその役割を果たしたと言うことです。

これらの意味することは、この兵庫という地は特別なところで、古代王族たちがどの地域よりも居住していて、王族のお墓がたくさん古代大王の陵墓を守っていることを教えています。

兵庫県最大の前方後円墳は「五色塚古墳」(神戸市垂水区)で、全長194mということですが、神河町南小田836m山頂のイエス・キリストの墓である前方後円墳は、全長270mはあるかと思われます。300m級ほどの大古墳から卑弥呼の150mほどの古墳など兵庫県の山中には何基も隠されています。

もう小さいのならいくらでも山中に眠っています。

インターネットの時代になって、もうこれらの事実は隠し通すことはできないでしょう。


ところで、兵庫県伊丹市に日本列島の形をした島がある「昆陽池」をご存知だろうか。

この池は東大寺大仏殿建立の責任者と知られる高僧、行基が指導する集団によって、奈良時代の731年から約10年の月日を費やして造られたということですが、このポイントが実に妙です。

昆陽池は、東大寺大仏殿と出雲大社とを結んだライン上にあって、

東大寺大仏殿とイエス・キリストの墓の横にあるハートの丘が教える絶峯御林とその昆陽池から西に行った場所で3:4:5の大矩を描くポイントに

生石神社(おおしこじんじゃ)のモニュメント的な巨石の石の宝殿があります。

石の宝殿の巨石は、見事に奈良橿原神宮にある神武天皇陵と出雲大社に向けて設置されています。

この石の宝殿の巨石の下に、イエス・キリストの聖杯が置いてあると以前ブログに書いたことがありますが、すぐさまグーグル社は地図上から神社名を消したり、衛星写真の情景も変わりました。

そしてそれからほどなくして、国指定文化財認定となりました。 

これらのことは偶然でしょうか

ちなみに、昆陽池の日本列島は50数年前に、大阪国際空港(伊丹空港)から離陸した直後の窓から見て楽しんでもらえるよう、意図的につくられた人工島ということですが、これも先人達の想いと、現代人の想いとが織り成す妙であります。


邪馬台国は邪馬壹国が正しくて、女王卑弥呼は大国主命=イエス・キリストの墓守を聖地神河でしていたのでした。

政治政体は奈良巻向で、国事国体は播磨国風土記に記された埴岡の里、現在の朝来市生野町と神崎郡神河町で、卑弥呼の居城であり陵墓は婀月山でした。

卑弥呼の陵墓は、五色塚古墳と同じく表面は全て栗石で覆われていて、居城である遺跡の証拠も在りました。

  

東大寺大仏殿の真西に、大本教の聖地と言われる上島があり、その西にクラ掛島があります。

それらの各島から真北に上がったところにダビデの墓やイエス・キリストの墓が造られています。

これらの基本的霊ラインの上には神社や寺院、それにベンチマーク的な山や磐座があり、それらの点からまた三角法で次の点あ導きだされるようになっています。

それらの図形は、イエス・キリストの墓や卑弥呼の陵墓などに集まるように霊ライン網が作られています。

あまりにも見事です!

 昆陽池を上空から見ると・・!


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神河町は世界的遺産の宝庫です。 2018第3号  3月31日発行

2018-03-29 10:26:45 | かごめかごめの真実とは

2018年3月29日(木)

 朝刊各紙にビラを入れます。

大山地区にある標高779mのドーム状に見える山、それが卑弥呼の陵墓です。

 

私は昨年の町長選挙に出馬しました。

初めての駅立ちには長谷駅を選びました。もちろん数人しか乗降者が

いないと知ってのことでした。そこで私は忘れることができない大きな

感動を得ることができました。

ホームに上がってきた学生さんに、「君、この山を越えたところに

卑弥呼の墓があるのを知ってるかい?」と尋ねると、「知っています」と

キッパリ答えてくれました。私は長谷駅に立ったことと、

町長選挙を通じて町民の方々に卑弥呼の墓や大国主命の墓などが

あることを伝えようとしたことが間違いではなかったことを実感しました。

卑弥呼の陵墓は、大山地区にある七宝寺から西正面に見える

標高779m地点にあるドーム状の山です。

魏志倭人伝には、「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と記載されていますが、2012年6月24日に神河町の有志の方々が測量してくれた墳丘長さ150m、高さ15m、後円部径100m、上円部径50m は、魏志倭人伝に書かれている墓の径と合致していますし、そこには山椒がたくさん自生していて、大猿やキジがいたという記述の情景は、現在でも当てはまります。

また、レーダーで地底探査も行いましたが、人工的な山であり、そこからは非鉄金属反応も捉えることができました。

私は、この山に婀月山(あづきやま)と名前を付けました。

そして今この婀月山の表土を取り除いて調査をしていますが、どこをはがしても表土の下から割栗石が出てきます。

何度か学芸員の方に会って説明もいたしましたが、「779mの高い山頂には古墳はありえません」と、聞く耳を持ちません。

でも、考古学者が現況を見れば、それは人工物であり古墳であることはもう一目瞭然です。現代の考古学の常識を覆す大発見が神河町大山にあるのです。

実は女王卑弥呼は、南小田の山頂にある大国主命などの墓守が主な役割でした。政治政体が奈良巻向で、国事国体は、播磨国風土記に記された埴岡の里なのでした。

魏志倭人伝の記述内容は100%正しいものです。

比叡山延暦寺根本中堂でご本尊様に手を合わせると、南小田にある大国主命に手を合わせるようになっていると前回書きましたが、実は、卑弥呼の陵墓も全く重なります。そして・・、姫路城の天守に刑部明神が祀られていますが、ここで手を合わせると、見事に卑弥呼の陵墓に手を合わせるようになっています。 つまり、姫路城は卑弥呼の陵墓に手を合わせるように築造されているということです。陵墓の麓にも刑部さんが祀られていますが、ここで手を合わせても卑弥呼に手を合わせるようになっています。偶然でしょうか。

また、卑弥呼の陵墓から、伊勢神宮内宮までの距離と、出雲大社までの距離とは、どちらもおおよそ193㎞で等距離です。 偶然でしょうか。 いえいえそうではありません。 これは緻密な設計の上での位置決めがなされているということです。

神河町は素晴らしい世界的歴史遺産の町なのです。

これらの歴史遺産を表に出すことで、ガイド業、民泊業などを通じて雇用の創出や、町だけでなく、我が国の活性化にも貢献できるものと私は思っています。

他から何をしてもらうかでなく、自分がこの町のために、この国のために何ができるかを、ビジネスを通して実践してみたいと思います。

神河町は誇りある素晴らしい町です。ご要望がありましたら聖地神河ひろばで、または、各地区の会館で映像を見ていただきながらご説明させていただきます。

どうぞ、お気軽にお声かけしてください。


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本格的調査が始まる可能性も・・、です!!

2018-03-16 10:19:39 | かごめかごめの真実とは

2018年3月16日(金)

 15日(木) 午後より女王卑弥呼の陵墓である婀月山へと上りました。

林道に大木が2本倒れていましたので、尾上さんがチェーンソーでカットしてくれ、大山財産区の議長さんにも手伝っていただいて、車が上まで通れるようにまりました。

山頂に立って、眺望の良さにお二人ともご満悦の様子でした。

そして陵墓が、栗石を積んで造営されていることを確認していただきました。

内藤さんもモクモクと調査をしていました。

何かを内藤さんは気付いているかもしれません・・。

「表土が沢山積もっているところがあるんです・・」と。

さぁ~、本格的調査が始まる可能性も・・、です!!


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魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼の陵墓は、神河町大山にあります

2018-03-08 16:44:38 | かごめかごめの真実とは

2018年3月9日(金)

魏志倭人伝に書かれていることは100%正しいものです。

帯方郡からの航路は、仁川から仁川です。

そして陸路を通って卑弥呼の居城がある(神河町長谷)まで1ヶ月を要しました。

女王卑弥呼への朝見航路は、七福神様達に会うためのルートでもありました。

神河町大山にある七宝寺から見える卑弥呼の陵墓です。

卑弥呼の陵墓の基盤は強固な岩山です。

その岩肌に無理やり植林していましたから、木が大きくなって、木々が倒壊してしまっています。

岩肌を痛め、山を痛めてしまっています。

卑弥呼の陵墓から、出雲大社までと伊勢神宮(内宮)までの距離は、おおよそ193㎞と同距離です。

これは偶然ではありません。 この三点は、大いに関係があるものです。

上の図面は、測量図です。

山頂部におおよそ墳長150m、後円部の底辺が直径100m、上円部直径50m 高さは15mの前方後円墳、又は帆立貝形古墳の様相です。

黒い表土の下からは、どこの場所からも栗石が顔を出します。

元Jリーガーの内藤さんです。

前方部は鉄塔建設などもあったせいか、栗石がむき出しです。

前方部から後方部を見た情景です。

大きくなって倒れた木々が沢山あります。

考古学の学芸員の方々は、「779mの山頂に古墳などあり得ません」と言われます。

はたしてそうでしょうか。

卑弥呼の陵墓は、強固な岩山の上に15mほど栗石を積み上げて築造されています。

その栗石の上に無理して植林されていますから、木が大きくなればなるほど、強風に耐え切れず全ての木が倒れて行きます。

倒れた木の根っこは全て、栗石を抱きかかえて倒れています。

このことは、卑弥呼の陵墓が傷つき破壊されていることを物語っています。

 

今、地元から許可をいただき表土を取っていますが、どこの表土を取り除いても栗石が出てきます。

卑弥呼が陵墓を築いたのは1800年ほど前です。

木々の枝葉が土に還る厚みは、一年に0,01mmですから、凡そ18cmもの黒い表土を取り除くと、割栗石が出てきます。

陵墓の東面は風あたりが強いですから、それらのところは、栗石がむき出しにもなったりしています。

今、元Jリーガーの内藤さんが表土を丁寧にはがす作業を行っています。

私も先日行いました。

どの場所も、どの場所からも栗石が顔をのぞかせます。

倒木もあったりしますが、できるだけ広い面積の表土をはがしたいと思っています。

「私も手伝いたい!」という善意の応援隊が増えれば増えるほど、卑弥呼さんのお墓であることの立証が早まるでしょう。

私もできるだけ山に登って作業をしたいと思っています!

大国主命亡き後78年も続いた倭国大乱後の新たな国家建設は、政治政体が巻向で、国事国体はでした。

国事国体を司ったのが女王卑弥呼でした。

土木・建築の現場で、基礎工事に使う石のことを今でも「栗石(ぐりいし)」と言いますが、語源はここにあると私は思っています。

表土を全て取り払って栗石を出せば、学芸員も一般の方々も古墳であることを信じてくれるのでしょうか。

そうであれば・・やらなければなりません!


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卑弥呼の陵墓である婀月山は、どこを掘っても割栗石が出てくる

2018-03-05 21:11:58 | かごめかごめの真実とは

 2018年3月6日(火)

 

 

 


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巨大な龍の背中に乗って下りてきます

2018-02-11 09:17:18 | かごめかごめの真実とは

2018年2月12日(月)

 昨日は東のメノラーへと行きましたが、今日は西のメノラー探索です。

道教の聖地千山に匹敵するような秘境かもしれない市川町の美佐から入って、重要な拠点の探索です。

時間があれば亀ヶ壺の滝の上部にも行けるかもしれません。

このエリアは、正に古代の重要な儀式を執り行う神聖な場所だったことでしょう。

それを証明するものは、神様の木である巨大な榊の原型のメノラーがあり、神様に捧げる神聖なる水を溜める大きな壺が造形されていたり、伝承も残っていることです。

そのエリアに仁徳天皇の父であり、応神天皇の子である絶対的権力者の墓があっても何も不思議ではありません。

当然至極です。

大国主命=イエス・キリストの血を引いた女王卑弥呼は、男の子を生みました。

その男の子にスサノオノミコトの血を引くお嫁さんが、安栖里から現在の神河町の栗に嫁いで来られました。

そのお嫁さんは、2人の女の子を生みました。

その下の女の子は、女、女、男の子を授かりました。

その男の子こそが、応神天皇です。

卑弥呼の居城は、現在の神河町の栗でした。

卑弥呼は、この国が真っ二つに割れて戦が始まる危機的状況を回避するために、2年半ほどかかって自分で陵墓を造営し、自分から進んで陵墓に入って岩戸を閉めさせました。

残った孫娘達は、安全な場所である母親の故郷である安栖里に子供たちを連れて帰って育てました。

応神天皇稜が、安栖里に向けて造営されているのは、そのことを私たちに教えています。

「どうして、イエスの墓や女王卑弥呼の墓などが、神河町一帯にあるのですか」と皆さんが言われますが、その地の北である生野町一帯にこそ、はるか上空からしか見ることができない鶴と亀、龍(玄武)やハトホルなどの巨大な意味ある地上絵が現存し、現代の私たちの奥底に潜む信仰心こそ世界の宗教の原点であり、日本神道の祀り方の原形が、そこ播磨国風土記に記された埴岡の里にあり、そのエリアの山々は琴座やオリオン座、小犬、大犬座など天体の星々を地上の星としてもっと壮大なスケールで布置させ関連性を持たせていました。

誰も消すことが出来ないこの世の真実が地球というキャンパスに描かれていました。


今日は西のメノラーの探索です。

西のメノラーには巨大な龍(蛇)が造形されていますが、稜線の頂からその龍の背中に乗って下りてきます。

龍の背中には何があるのか、頭部には何があるのか楽しみです。

 

どこに龍が造られているか分かりますかぁ!?


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大変ご迷惑をおかけしています

2018-01-05 04:43:40 | かごめかごめの真実とは

2018年1月5日(金)

4日が我社の初出でした。

「さぁ今日はメールの処理をしなくては・・」と思って出社すると・・。

「パソコンが作動しません。通信不能です」と矢野さん。

矢野さんは冷静な様子の中にも動揺、いえいえ動揺の中にも冷静に対処していましたが、復旧には時間がかかりそうです。

今日には回復してくれることを願っています。

年末から年始にかけて、ご注文や亀さんへの問い合わせやメールなどいただきました皆様には、大変ご迷惑をおかけしています。

このような事情で、もう数日間遅れるやもしれませんが、よろしくお願いいたします。

申し訳ございません。

・・・

初出はこのようなスタートとなりましたが、私の身体は昼前から見事に三宮で仕事を終え、神河へと行ってターンして4時には六甲道に帰って来たという

普通では考えられない体験の日でした。

これは白龍様、黒龍様のお力なのでしょうか・・と思うのも、このように書いていると突然下の画像が張り付いてきました。

時々、このようにして不思議なことが起きるのですが、今年もいろいろとありそうです。

桃栗三年柿八年といいますし、不思議な世界に入ってもう8年目に突入していますから、今年はそろそろ実が生っても良い年だと思っています。

今年は卑弥呼さんの岩戸が開く予感がする私です。8月が来ればもう9年目に突入しますから・・。

神戸市垂水区にある神社です。

すぐ近くには、元旦など人人人でごった返している神社がありますが、そのようなときでも誰一人いません。

人の行く裏に道あり花の山・・的な、いつでも神様と会話できるようで、私の大好きな神社です。

・・

津市に引っ越しされたばかりのHさん、年末に引き続きお年玉にっと言って又重ねてコスモを買っていただき、その上ご寄付までいただき誠にありがとうございます。

お気持ちが心に染みわたります。頑張ります!!


 


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先人達は、熟慮を重ねたうえで陵墓や神社やお寺を設計し、埋田神社もその中でも特に重要なことを教えていました

2017-10-11 08:31:31 | かごめかごめの真実とは

2017年10月11日(水)

 神河町中村にある埋田神社の祭りは勇壮でした。

その埋田神社がある場所は、見事に設計されたポイントに造られていました。

魏志倭人伝に記されている邪馬壹(台)国は、政治政体が纏向(奈良)で、国事国体が栗(神河町)でした。

ですから、女王卑弥呼が住んでいたところは、現在の神河町でした。

卑弥呼は、248年11月17日、大国主命=イエス・キリストの命日に自らの手で造営した婀月山の陵墓に岩戸隠れしました。

その陵墓から出雲大社までの距離と伊勢神宮内宮までの距離は、ほぼ193㎞と同距離の場所に築造されています。

また、その場所は、笠形山~砥峰 千ヶ峰~雪彦山の山頂点を結んだ交点に設けられています。

そして・・、卑弥呼の陵墓である婀月山と笠形山とまでの同距離の地点に埋田神社があります。

そしてそして、なんと神様に備える榊の原型である東のメノラーと卑弥呼の陵墓を結んだライン上に埋田神社があり、法楽寺、春日神社が見事にそのライン上に造営されています。

この聖なる地域の中でも埋田神社には歴史的にも特別な意味が託されています

実は、1000人の御霊に手を合わすように見事な設計がなされていました。

特に、地元の中村の方々には知っておいていただきたいことがあります。

いつの日かその時が来るのを今から心待ちにしている私です。

 

 


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女王卑弥呼が暮らしていた場所は、七福神様たちの陵墓もある古代から特別な場所でした

2017-10-07 07:07:07 | かごめかごめの真実とは

2017年10月7日(土)

邪馬壹(台)国は、政治政体は纏向 国事国体は現在の神河町の栗でした。

そこには、誰が見ても優美な八幡山ピラミッドがあり、そこで女王卑弥呼はご先祖の神々に祈りを捧げていました。

卑弥呼が暮らした場所からは、大黒(イエス)様や恵比寿(タダイ)様など実在した七福神さまたちの陵墓が見渡せます。

卑弥呼は、女王とは名ばかりで、先祖の墓守が彼女の務めでした。

卑弥呼が暮らした場所は、三角法で重要な山や島など、綺麗な直角三角形や二等辺三角形など、たくさんたくさん描けるポイントにあります。

そしてそこには、冬でも暖かい玉座が北風を遮る場所に造られていました。

武部さんが詳しくその現地の位置情報も公開し、紹介されていますので、是非とも見ていただきたいと思います。

 上森三郎さんが卑弥呼が暮らしていた場所という所で大発見-1

 上森三郎さんが卑弥呼が暮らしていた場所という所で大発見-2

 

 

 

 

 


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