2018年3月9日(金)
魏志倭人伝に書かれていることは100%正しいものです。
帯方郡からの航路は、仁川から仁川です。
そして陸路を通って卑弥呼の居城がある栗(神河町長谷)まで1ヶ月を要しました。
女王卑弥呼への朝見航路は、七福神様達に会うためのルートでもありました。
神河町大山にある七宝寺から見える卑弥呼の陵墓です。
卑弥呼の陵墓の基盤は強固な岩山です。
その岩肌に無理やり植林していましたから、木が大きくなって、木々が倒壊してしまっています。
岩肌を痛め、山を痛めてしまっています。
卑弥呼の陵墓から、出雲大社までと伊勢神宮(内宮)までの距離は、おおよそ193㎞と同距離です。
これは偶然ではありません。 この三点は、大いに関係があるものです。
上の図面は、測量図です。
山頂部におおよそ墳長150m、後円部の底辺が直径100m、上円部直径50m 高さは15mの前方後円墳、又は帆立貝形古墳の様相です。
黒い表土の下からは、どこの場所からも栗石が顔を出します。
元Jリーガーの内藤さんです。
前方部は鉄塔建設などもあったせいか、栗石がむき出しです。
前方部から後方部を見た情景です。
大きくなって倒れた木々が沢山あります。
考古学の学芸員の方々は、「779mの山頂に古墳などあり得ません」と言われます。
はたしてそうでしょうか。
卑弥呼の陵墓は、強固な岩山の上に15mほど栗石を積み上げて築造されています。
その栗石の上に無理して植林されていますから、木が大きくなればなるほど、強風に耐え切れず全ての木が倒れて行きます。
倒れた木の根っこは全て、栗石を抱きかかえて倒れています。
このことは、卑弥呼の陵墓が傷つき破壊されていることを物語っています。
今、地元から許可をいただき表土を取っていますが、どこの表土を取り除いても栗石が出てきます。
卑弥呼が陵墓を築いたのは1800年ほど前です。
木々の枝葉が土に還る厚みは、一年に0,01mmですから、凡そ18cmもの黒い表土を取り除くと、割栗石が出てきます。
陵墓の東面は風あたりが強いですから、それらのところは、栗石がむき出しにもなったりしています。
今、元Jリーガーの内藤さんが表土を丁寧にはがす作業を行っています。
私も先日行いました。
どの場所も、どの場所からも栗石が顔をのぞかせます。
倒木もあったりしますが、できるだけ広い面積の表土をはがしたいと思っています。
「私も手伝いたい!」という善意の応援隊が増えれば増えるほど、卑弥呼さんのお墓であることの立証が早まるでしょう。
私もできるだけ山に登って作業をしたいと思っています!
大国主命亡き後78年も続いた倭国大乱後の新たな国家建設は、政治政体が巻向で、国事国体は栗でした。
国事国体を司ったのが女王卑弥呼でした。
土木・建築の現場で、基礎工事に使う石のことを今でも「栗石(ぐりいし)」と言いますが、語源はここにあると私は思っています。
表土を全て取り払って栗石を出せば、学芸員も一般の方々も古墳であることを信じてくれるのでしょうか。
そうであれば・・やらなければなりません!