2024年5月14日(火)
藤原不比等の終焉の地は、奈良県大和郡山市稗田町の環濠(賣太神社)であるとフェニックスコードは教えています。
それで先日私は、その地へと行ってコアロッドで探査しました。
神社で手を合わせると、秦河勝が眠る生島に手を合わせるように設計された南北に伸びた拝殿の両脇から外に共に5mほどの長さ×3m程の平面に銀の反応を捉えました。
賣太神社拝殿の下には銀がびっしり埋設されていました。
2024年5月14日(火)
藤原不比等の終焉の地は、奈良県大和郡山市稗田町の環濠(賣太神社)であるとフェニックスコードは教えています。
それで先日私は、その地へと行ってコアロッドで探査しました。
神社で手を合わせると、秦河勝が眠る生島に手を合わせるように設計された南北に伸びた拝殿の両脇から外に共に5mほどの長さ×3m程の平面に銀の反応を捉えました。
賣太神社拝殿の下には銀がびっしり埋設されていました。
2022年6月1日(水)
橘三千代の墓と光明皇后の地下神殿と孝謙天皇の墓は直角三角形を描きます。
そして、橘三千代の墓と孝謙天皇の墓と竹生島はケプラー三角形を描きます。
また、孝謙天皇の墓である上谷山(1083m)の磁北の990m部分には山頂を崇める遥拝の丘も存在します。
この場所から山頂を崇めるその遥か先には、斎宮があることは、これも偶然ではなく計画的配置だと私には見えます。
2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2021年9月9日(木)
4日のツアーの最後は、赤穂大石神社駐車場にバスは停まり、(参拝 義士資料館 元禄茶屋 歴史博物館 赤穂城等散策90分)の予定となっていました。
私は念のために、生島でも実験してビックリ興奮状態が続いていたので、お城でも実験すべくバスから降りる時は、キッチリと手にコアロッドを握りしめていました。
そして、お城が見えるあたりから両手に持って試しました。 ・・するとほどなくして「ご主人様ご主人様~!」と反応しました。
またもや生島に続いて仮説の実証実験に成功です。
生島では海に閉ざされていましたが、お城ではそのポイントまで歩くことができます。
そして・・、そのポイントまでたどり着くことができました。
300m先からもキャッチすることができましたね!!
ツアーの皆さんは、ほとんどの方が矢野さんとスタッフの皆さんと共に義士資料館へと行かれましたが、私はコンパスグラスで目標となった大きな木を見つめつつ、城内の散策路上で位置を確かめながら〇探査器の先端を見つめます。
間違いなく目標物は仮説のライン上を誘導していることがハッキリと分かります。
バスから降りて最初に反応を見せた目標の大きな木の左横にピッタリと私を誘導しました。
そうそう、私の後を先日テラファイトアンバサダーに来てくれて、二日目には一緒に再度山大龍寺に行った立和田さんが私の後ろから見守り続けてついて来てくれていました。
私は目標となった大きな木の左手の高い土手を上がり石組の上に立ち、最後の探査です。
「ここです!」と、その目指したポイントの真上に立っていました。
そうしていると、ほどなくして上野さんと大西さんもその場所にやってきました。
「17m下と言ってますが、ここから17m下と言えばどのあたりでしょう」と私。
「17mだったら堀の水面あたりではないですかね」と大西さん。
その時、「危ないですから、降りてください!と言ってるようですよ」大西さん。
私は、集中していましたから一切そのアナウンスは聞こえませんでしたが・・、即その場を後にしました。
そして、何かその場所を外から見ればヒントがあるのではないかと、外堀の外から眺めるべく三人と肩を並べることなくそのポイントに急ぎました。
そして、石組に目を凝らしました。
後で調べる為に写真を撮ることも忘れませんでした。
そして、「違う!!」と頭の中に確信的に言葉が響いていました。
間違いなく他の一般の石組と、その場所には違いが見て取れました。
上からの荷重をアーチ状に分散させています。他は均等に荷重をかけていますから平面的です。
その違いは構造的観点から一目瞭然です。
そこへ少し遅れてお三人さん方が到着しました。
「通路の出入り口です!」と。
赤穂城に大量の埋蔵金です!!
立和田さん、大西さん、大石内蔵助さんらに託されたように思いますが・・。
千種川と海から城内に入ることができたのですねぇ。
あれれ!私には通路の入口に見えます!
石組が完全に他の石組とちがいますね。アーチ状に組まれていますよ。
あれれ!水位が下がった時の石の上面に注目です!通路の両側の石との違いがハッキリと分かりますよ。
正面に向かって左手にもありそうですよ。
2021年9月7日(火)
4日(土)のツアーの前日は雨模様で、当日の朝方までそれは続いていたようだった。
大勢の方々がわざわざ遠方からお墓参りに来てくれるというので、みなさんに粗相がないように向こうの世界の方々は「打ち水」を丁寧にぎりぎりまで撒いていたように思います。
坂越にバスが着くころには、すっかり天気も良くなっていた。
向こうの世界の方々が打ち水をしていてくれたおかげで、ほこりが舞うこともなく有難い天気となって、大避神社から妙見寺へと行って生島を皆で眺めて、思い思いにご先祖様に手を合わせていただけたことでしょう。
秦河勝公を偲びながらも坂越を後にして次の目的地である赤穂大石神社へとバスが走り出してほどなくすると、マイクを手にして皆さんに「向こうの方々はさぞや喜んで居られることでしょう」という話をしていたら、みなさんが窓の外を指さしてワイワイガヤガヤ。
そうしていると今後は反対側の席の人達も窓の外を指さしてワイワイガヤガヤ。
もう誰一人も私の話を聞いている人はいない様子なので、私もマイクを置いて外を眺めると綺麗な彩雲が輝いていました。
やっぱりご先祖様達は居てるんだぁ、喜んでおられるぅ~~!!という実感でした。
早速、千葉県の細井さんがメールでその時の彩雲の画像を送ってくれました。
そして、近くに住む上野さんも写真を持って事務所に来てくれました。
細井さん、上野さん ありがとうございました。
下の写真は上野さん撮影。
下の二枚は、細井さん撮影。彩雲の右手の雲をよ~~く見ると、私には人の顔にも見えますが・・。
綺麗ですねぇ!!
2021年9月2日(木)
なにやら怪しい図形が浮かび上がりました。
電話を終えた後に書かされた図形ですよ、大西さん。
空海の父と母と娘の墓と・・。
土曜日にツアーでお墓参りに行く秦河勝のお墓「生島」と・・、今度、武部さんと調査に行く場所と。
んん~~ん、空海のルーツと財宝の在処の地図のようでもありますが・・・、空海コードで浮き上がった不思議な図形です。
2021年7月31日(土)
9月4日に秦河勝のお墓参りツアーを行いますが、ここにきて奈良県大和郡山市にある稗田の賣太神社(めたじんじゃ)の秘密が浮かび上がってきました。
なんと、賣太神社で手を合わす先は、秦河勝の墓である生島に手を合わすように神社本殿は設計されていることが分かりました。
そしてその賣太神社から丹後半島にある徐福の墓までと、秦河勝の墓である生島までの距離は125~128㎞で、凡そ二等辺三角形を描きますし、
鳥取の摩尼山から徐福の墓までと、生島までの距離も87㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
綺麗な図形です。
藤原不比等と私、どんな繋がりなのだろうか。
2021年7月29日(木)
私たちの先祖を辿ると、「藤原家に繋がります」と今まで私は皆さんに告げてきました。
もちろんそれは正しいのですが、もうお一人スゴイ方が居られました。
それが、応神天皇の代に弓月の国から19万の民を引き連れて日本にやってきたという『秦河勝』です。
「秦河勝が私の先祖なのですが・・」と言われる方も、「秦河勝のことを教えてください」と突然事務所に来られたりもしましたが、
私たちの先祖を辿ると、間違いなく秦河勝にもたどり着くと私は思っています。
どうして奈良、京都の造営に尽力した秦河勝の墓が、兵庫県赤穂市坂越の生島(いきしま)にお墓を設けたのかを不思議に思っていた私でしたが、ここにきてハッキリと理解できるようになりました。
それで・・、生島にこそ上がることはできませんが、行基、空海様も手を合わせ眺めたであろう宝珠山妙見寺から同じように手を合わせようと思い、日帰りツアーを企画しました。
ご賛同いただける皆さまと共に、我が国の礎を築かれたご先祖様に手を合わせたいと思います。
2021年7月20日(火)
私は、どうして秦河勝の墓が兵庫県赤穂市坂越の生島にあることが理解できませんでした。
でも・・空海コードでマリアの墓とエリアムの墓と秦河勝の墓とで直角三角形。
マリアの墓の近くにある王山とソロモン王の墓と秦河勝の墓とで直角三角形。
秦河勝の墓とソロモン王の墓とイエス・キリストの墓とで直角三角形を描いている。
秦河勝は、エリアム ダビデ王 バト・シェバ ソロモン王 マリア イエス・キリスト 卑弥呼の血を受け継いでいることを私たちに教える為に、兵庫県赤穂市坂越の生島を永遠に眠る場所に決めたと言うことです。
いえいえ、秦河勝は、テラ(天照大神) モーセ シバ の血をも受け継いでいると言ってますよ。
そのことを知っていた行基、空海は、宝珠山妙見寺から秦河勝が眠る生島をいつまででも手を合わせ眺めていたことでしょう。
2021年4月6日(火)
昨日、4月5日(月)朝9時前に、宮崎君から電話。
「今日は、山ですか?」・・と。
「今日は、事務所です」と私。
「昨日は赤穂に泊まることになりまして、どうしても上森さんにお会いしたいという方が居られまして・・、お連れしてもよいですか」・・と宮崎君。
「良いですよ」
・・と言うことで、お昼過ぎに宮崎君がやってきた。
それからほどなくして、ご夫妻がやって来られた。
出された名刺には、『大倉正之助』。
やってこられて、挨拶もそこそこに、近くの焼き肉店へと昼食に。
すぐさま事務所にもどり、話は勝手に進んでいました。
昼食の時もそうでしたが、事務所でも、
「あなた!失礼でしょう・・」と奥様。
何度でも、ご主人様は、シータ波に近いスローα状態で・・。
「良いんですよ、今、神様が来て居られますから・・、私はいつも事務所に来たら眠らされるんです。失礼でもありませんよ」と私。
気遣う奥様に何度となく同じ言葉を言う私でした。
んん~~ん、ドラマは急展開の模様です。
大倉さんが見せてくれた家系図の始まりには、『秦河勝』の名前が書いてありました。
丁度一週間前のブログに、秦河勝の墓である赤穂の生島と、聖武天皇の墓と弘法大師廟と卑弥呼の墓のことを書きましたが、そのことから話が始まったようでした。
大倉さんは、昨日4日、日曜日に大避神社での和楽の奉納演奏に来られたとのことで、生島へも渡られたとのことでした。
間違いなく、ルーツを辿れば「秦河勝」のようでしたから、私はいろいろと伝えてあげました。
「秦河勝のご先祖様である弓月王のお母さんの母の墓はどこにあるかご存じですか」
・・「知りません」。
「弓月王のお祖母さんの妹さんの陵墓は、宮内庁が管理しています」
「その方たちの母親の墓は、ここです。2:1:√3の直角三角形を描きます」
「その方は、安栖里から卑弥呼さんの息子の嫁に嫁いで来られました」
「卑弥呼には男の子が一人居ました。そこにモーセの直系の家系であるお姫様が嫁いでこられまして、女の子が二人できました」
「下の娘さんには、女、女、男が生まれまして、その男の子が応神天皇です」
「上の女の子には、女、女、女・・」もう話はついていけませんよね。
「上のお姉さんの子供が、高句麗の王様に嫁がれまして、生まれたのが弓月王です」
「弓月王の母方は、卑弥呼に繋がりイエスの四男で第四代懿徳天皇に繋がり、父方もイエスに繋がり・・」
・・このような話・・、到底、話についていけません。
意識はもう、もうろうとしてしまいます。
当然至極の状態なのでした。
私はこの時、秦河勝と、そのご先祖様である弓月王とを混同して喋っていました。
それをきっかけに次々と大きな発見へと繋がっていきました。
昨日の会話を綴ると、小冊子一冊が出来上がる内容でした。
でも、話の内容から分かったことは、間違いなくバチカンは、イエスの直系である人物たちのことを知っているようです。
本人が知らなくても、バチカンは知っていますね。
だって、ご夫妻は、バチカンの大事な節目の年に、日本代表でバチカンに呼ばれています。
ご本人様たちは、「どうして私たちが招待されたのか分からない」と言って居られましたが、私には十分にそれは理解できます。
八木さんの数霊の予告、当たってますよ。
藤田さん、メールありがとうございます。
藤田さんのルーツにまで話は行きつきました。
私との会話からすぐにその方へ電話して居られました。
「電話が通じませんので、メールを入れておきました・・」と。
皆さん、かごめのドラマの中で、台本通りに演じて居られますねぇ。
鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓の話から、「赤十字山って!?・・あるんですかぁ・・」と驚いておられましたねぇ。
「長老ヶ岳では、宮崎君は不思議な体験をしています。四天王寺で手を合わす先は、その長老ヶ岳です」と。
この国の長老って藤原鎌足であり、その子孫が赤十字と大いに関わっていることを教えています。
2021年3月29日(月)
大本の綾部本部の禁足地は聖武天皇の墓である。
先日の関西サイ科学会での講演会で、弾圧されて壊されたがれきが禁足地の山頂に埋められていることをスライドで見せられた。
それを見て知った空海は激怒した。
大本で起きることは、日本のひな型であり世界のひな型だというらしい・・。
世界の争いごとと環境破壊・・。 無縁なのだろうか・・。
誰しも、神聖なる先祖の墓の上にゴミが盛られていたらどう思うのだろう。
それが・・、知らないとは言え・・、よりにもよって聖武天皇の墓の上に・・。
大本も国家の長も、何も知らぬ存ぜぬでやり過ごすのか・・。
これ以上、日本と世界が恐ろしいことにならないように祈るだけである。
不思議な話であるが、2011年11月1日に神戸の前の事務所に見ず知らずの女性が、私が作ったピンクのテラファイトを持って突然入って来られた。
そしていろいろ不思議な話を聞かされて、「明日、私と一緒に行ってください」と言われて、翌日その女性に言われるままに私が運転してたどり着いた場所が大本の綾部の本部だった。
「いろいろ聞いていた・・ここが大本の本部かぁ・・!」と思ったものである。
そしてそこで不思議な体験をした。
そしてその日から、どうもそこで出現した王仁三郎らしき霊が私とともにいろいろ一緒に旅をした。
そのようなこともあり、空海と大いに関係する真言宗のお寺として隣接する正暦寺へも後日行った。
下の図形は、見事にシンメトリーを描いています。
高野山の弘法大師廟から聖武天皇の墓までと、秦河勝の墓である赤穂の生島までとは、共に122.9㎞で三点は見事に二等辺三角形を描いています。
同じように黄色は恵比寿(タダイ)の墓、赤は卑弥呼の墓からそれぞれ二等辺三角形を描いています。
これはほんの一例であるが、綾部の禁足地の一点に集まる空海コードは無数に重なります。
2019年7月9日(火)
神河町長谷の栗 山中には、女王卑弥呼の山城の城壁である神籠石が残っています。
私は来週、千島学説を実践している方々の集まりに山口県へと行くことになっていますが、「山口県に何があるのだろう??」とネットで調べてみたら、山口県田布施町にも石城山神籠石(いわきさんこうごいし)という遥か古墳時代以前に造られたと思われる謎の石組みがあることを教えられました。
それでいつものように地理院地図と向かい合うと、いつものように睡魔が襲ってきて・・、目が覚めるとすぐさま図形が出来上がりました。
結論です!
下の図形は、石城山には古代大王の墓があることを教えています。
石城山神籠石のポイントは、モーセの墓と天照大神=アブラハムの父・テラの墓である神野山の王塚との三点で、5:12:13の整数比の直角三角形を描きます。
見事です!
そしてこの直角三角形の重心となる場所が兵庫県赤穂市の生島であり、この島を秦河勝はお墓にしています。
日本列島の中で、これら大王(大神)たちに守られて眠りに就く場所を秦氏は選定したのでしょう。
そして・・島の名は、蘇えり生まれかわりを約束するかのように「生島」と呼ばせたと聞こえてきます。
見事です!!
石城山に眠る古代大王とは何と呼ばれた神様なのだろうか・・??