2023年6月13日(火)
10日(土)は、PM8:00から泉佐野駅の近くのカイロベーシック スタジオからのユーチューブライブでした。
神戸からは結構な距離と時間がかかる場所でのライブなので、「どうして私は泉佐野まで行くのだろう、どうして泉佐野なのか?」と、前日の夜に思い立って、六甲道の我社と泉佐野のカイロベーシック様との関係を調べることにしました。
・・すると! 真っ先に浮かび上がったのが、カイロベーシック様から六甲道までと、高野山弘法大師廟までの距離が共に34㎞と同距離で二等辺三角形が描けました。
そして、カイロベーシックとT.T.Cとで正三角形となる場所に、伝 物部守屋墓が浮かび上がりました。・・これは大変です。
スタジオと空海の生誕地とイエス・キリストの墓とが直角三角形を描いています。 まだまだ浮かび上がってきました。T.T.Cの事務所から蘇我入鹿の墓までと伝 物部守屋墓までが同距離で二等辺三角形を描きますし、スタジオと蘇我入鹿の墓と生野の地下神殿も直角三角形を描いています。
ちなみに、本当の物部守屋(用明天皇)の墓は、用明天皇陵と伝 物部守屋墓まで同距離となる場所に造営されました。
これはもう私は、カイロベーシック様のスタジオに入る前に絶対に八尾市の伝 物部守屋墓に行ってからでないとスタジオには入れないと思い、当日はちょっとだけ早く六甲道を出て、八尾駅まで行って、駅前で待てどタクシーも来そうにないので、「偏角地球儀」をキヤリーに載せて引きずりながら目的地を目指しました。先ず目指したのは、伝 物部守屋墓の前を通り過ぎて大聖勝軍寺まで行きました。そこの境内でコアロッドで360度調べると、通ってきた物部守屋墓の方向にだけ金反応を示しました。・・ので、時間もあまりないのですぐさま引き返して、守屋墓の前でコアロッドを取り出して金探査を試みました。すると・・墓碑を中心として3.5mほどに金反応を示しました。このポイントこそ重要な場所であることの証明をみました。そこでゆっくりする時間もなく、八尾駅までキャリーバックを引きずりながら帰り、新今宮まで行って、南海電車で泉佐野まで行って、スタジオにたどり着いたのは、約束の6時過ぎに到着しました。どんより曇り空ではありましたが、顔は日焼けしたようでした。どうも、目には見えない何者かがスタジオまで一緒に行った感じがした私でした。
「間違ったことは絶対にダメですよ」とスタジオで何者かは言ってたようでした。
そして・・生配信が始まってまもなく、「間違ってる!」と、動画は途切れてしまいました。あなたはこの不思議な話、信じられますでしょうか・・。
2023年1月1日(日)
新年明けましておめでとうございます。
皆様が良き一年となりますようにお祈りいたします。
今年はウサギさんの本拠地にも行ってみたいものです。
推古天皇の墓から蘇我入鹿の墓までとうさぎさんの本拠地までの距離は同距離で直角二等辺三角形を描きます。
2022年7月25日(月)
ずっと謎だった長年のモヤモヤがすっきりしました。崎
伊勢に大王崎があって、その先に大王島があります。
「大王って誰なんだろう」と思い続けていましたが、蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)から大王島までと空海の生誕地までが同距離で二等辺三角形を描きます。
この図形は、「私は蘇我入鹿の生れ変りである」と聞こえてきます。
そしてそのことを証明するかのように、推古天皇の墓から蘇我入鹿の墓までと空海の生誕地までの距離は同距離で二等辺三角形を描きます。
不思議な不思議なお話ですねぇ。
2022年6月19日(日)
奈良時代の高僧、行基の墓は、竹林寺にあります。
そして、蘇我入鹿の次男、漢皇子が役行者でしたが、その役行者の子が行基でした。その行基の墓がある竹林寺裏山に役行者も葬られました。
私はこの前のツアーで大変な間違いをおかしていました。役行者の墓を竹林寺古墳と説明してしまいました。これは大変な誤りでした。以前、竹林寺に行った時に本堂の裏手にある役行者堂があるその場所近くに葬られたと教えられていたのに・・、何故か、何故か・・。皆さんに謝らなければなりません。 訂正し深くお詫びを申し上げます。
ツアーで竹林寺の後に役行者堂へと行きましたが、バスから降りてほどなくして両足のふくらはぎがけいれんし出しました。
初めての経験でした。行者堂までずっとその状態で、テラファイトアースでさすっては歩き、歩いては止まってさするという繰り返しで、又、三女神に助けられながらやっとの思いでかなり遅れて辿り着いた状態でした。
帰りは、全く引きつることもありませんでしたが、それにしても長い道のりでした。
あの日あの時、間違いなく役行者に、「違う、ちがう!」と怒鳴られたようです。「足腰が動かないようにしたる!」というようなお怒りでした。当然だと思う私です。
竹林寺古墳は、空海コードからは継体天皇と関係ある人が眠って居られるようです。
父、蘇我入鹿の墓から清水寺三重塔までと、役行者(漢皇子)の墓までは、共に24.4㎞と同距離の二等辺三角形を描きます。
2022年5月10日(火)
4月13日のブログで今城塚古墳を物部守屋を祀る陵墓と間違って書いていました。(現在は訂正しています)。
物部守屋は用明天皇でしたから、詣り墓は用明天皇陵です。下の図形は、それらのことを教えている空海コードです。
難波宮から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、物部守屋の埋め墓までと、用明天皇陵までの3ヶ所は凡そ21㎞と同距離です。
2022年4月21日(木)
改ざんされた隠された歴史の謎を解く鍵は、難波宮跡にあるようです。
その難波宮跡から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、用明天皇陵までと物部守屋の墓までは略同距離です。
物部守屋は用明天皇だったと空海コードでは響いてきます。
2022年4月9日(土)
今日は午後から、大阪 梅田スカイビルでの上森三郎セミナーです。
東京や福岡など遠方からも多くの方々が来られるようです。
有難いことです。みなさんに20日から発売される『ゼロリスト』や『テラファイト卑弥呼ゴールド』の最新情報などをお伝えします。
また、常々私は、歴史の真実を知ることで現人神の御霊が安らぐと思っています。
特に、卑弥呼、蘇我入鹿などの憂いている御霊を鎮めなければ、世界はますます混迷状態が加速すると思っています。
さあ卑弥呼の墓も蘇我入鹿の墓も特定できました。そして今日は、蘇我入鹿の父と母の墓も空海コードから導き出されましたことをご報告しなければと思っています。
良き日になりますように・・と。
2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2022年2月25日(金)
四天王寺の建築配置は、長老ヶ岳に手を合わせるように造営されています。
その長老ヶ岳のコンターラインは、ヘビの鎌首をあしらっていました。
そして、推古天皇陵と長老ヶ岳とを結んだライン上に蘇我入鹿の亡骸は埋葬されました。
そして推古天皇陵、蘇我入鹿の墓とヘビの鎌首をあしらった長老ヶ岳のラインと直角に西へ行った場所に、巨大な蛇の地上絵をあしらった段ヶ峰があります。
段ヶ峰は、ユダヤの12部族の中で、王様の北、あるいは頭上を守護する任務であるシンボルがマムシのダン族の墓です。
峰はへブル語でお墓の意味であり、段ヶ峰はダン族のお墓という意味です。
推古天皇陵と長老ヶ岳と段ヶ峰は、ケプラー三角形を描きます。
そして、蘇我入鹿は、長老ヶ岳と段ヶ峰との三点で正五角形の一部となる三角形のポイントに決められました。
四天王寺の建築の流れからして、これらの場所の決定と配置から、長老ヶ岳のコンターラインが蛇の鎌首をあしらっていることが言いきれます。
そして、女性初の天皇である推古天皇も第35代皇極天皇であり聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿もユダヤのダン族の血脈であることをはっきりと言い示しています。
乙巳の変というクーデターの一つの要因は、大いにユダヤの部族闘争にあるようです。
我国も含め世界の紛争の歴史の中で、大いにマムシのダン族に由来するように思う私です。
クリミヤ紛争の底流に、そしてこれから各地域で起き出す世界紛争の底流にマムシのダン族の闘争心を感じるのは私だけでしょうか。
夜明けの晩に突入です。
そこで・・、私の役割は・・、私の存在は・・。
でも・・地上絵はグーグルマップからは見えないように改ざんされてしまいました。
2022年2月15日(火)
謎の継体天皇は、投馬国の首長であり初代出雲(伊投媽)の大王、弥弥(彌彌)の血や、応神天皇の血を受け継いでいると言ってますね。
そして・・、蘇我入鹿は継体天皇の血を引いていると空海コードは教えています。
継体天皇の墓から蘇我入鹿の墓までと比叡山延暦寺までの距離は、共に18.56㎞とピッタリ同距離です。
空海コードと申しますか、天台宗系と真言宗系、修験道達の恐るべし世界があるようです。
天皇たちは、恐るべし掟の世界に亡骸を委ねました。
2022年2月10日(木)
光明皇后は海龍王寺に居住していた。
そしてそこには五重小塔があって、そこで祈る先は岡山の熊山遺跡に手を合わせるようになっていました。
そして、五重小塔と熊山遺跡と光明皇后の十字架の地下神殿とは、40度50度90度の直角三角形を描く配置になっています。
そして、蘇我入鹿の墓は、五重小塔と光明皇后の十字架の地下神殿とを結んだライン上に造営されています。
五重小塔も熊山遺跡も間違いなくベンチマークポイントで、これらも全て計画された配置にほかなりません。
2022年1月30日(日)
役行者の墓から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までの距離と、斉明天皇陵までの距離は見事に同距離で二等辺三角形を描いています。
「私は、蘇我入鹿(皇極天皇)と斉明天皇の間に漢皇子として生まれました!」と役行者は言っています。
斉明天皇の亡骸が埋められた場所は、斉明天皇陵から東へ270m行った閑散とした竹藪の中でした。
役行者や行基、和気清麻呂や最澄、空海・・そして桓武天皇たちは、蘇我入鹿の亡骸を生野の地下神殿に持って行って祀ってくれと、切に『成就』を願っています。
そうそう、土塔を造ったと言われている行基さんは、役行者の御子でしたよ。