2017年4月20日(木)
巴形銅器も測量器具でしたねぇ。
巴形銅器は三脚を固定し、有鉤銅釧(銅鐸)を吊るす為の道具でした!
そして、基準点に合わすための水平距離の微調整を行いやすくする為の器具でした。
上森が教えられ、解明してきたことの多くは、今の時点では、日本の常識とは異なる異説で、首を傾げる人も多いかもしれない。しかし、銅鐸は測量の道具だった、とする上森の意見は、一級建築士として自分の事務所を構えていた上森ならではの観察眼と知識に基づくものだけに、万人に受け入れられる説得力がある。
銅鐸は、紀元前2世紀から、紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した、謎の青銅器である。
その用途も不明で、研究者の多くは祭祀に使われたのだろうとみてきた。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。
つまり、風鈴の元祖で、その後、巨大化して、鳴らすものではなく、飾り物になった、というのだ。
これまでに発掘された銅鐸の形は、いずれも似たような形をしている。上の図は、代表的な形である。
では、ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか?
銅鐸は構造上は本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいており、鐸身は末広がりになっているのだ。
デザイン的には、直線で末広がりになっているものと、流線で下の方ほど広がりが大きいものがある。
そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。
後期のものほどサイズは大きく、鰭に「飾り耳」と呼ばれる突起が付いているものもある。
鐸身に文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなど、装飾デザインは、様々だ。
銅鐸の構造で、上森が気に留めたのは、鐸身に穴があけられていることだった。研究者には、「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれている。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分、鈕の穴を挟むようにふたつ、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏に各ふたつ、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形で、表裏各ふたつと、合計10コの穴があいている。
「型持穴」という名称がつけられたのは、それらの穴が製造過程の副産物だと考えられたからだ。鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間が必要となり、隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を内型に作っておいたものが、穴として残った、と推測されたのだ。
ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造するのは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいかもしれない。
もしこれらの穴が「型持穴」なら、穴の数や位置が決まっている必要はあっただろうか?そもそも、優れた鋳造技術とデザイン感覚を持った古代の銅鐸の製作者たちが、不要な穴を残したとは、考えにくいのではないか?
この穴に着目した上森は、銅鐸は実は古代の測量機器だったのではないか、と考えるに至った。鐸身の上部に開けられた穴には目的があり、双眼鏡のように、両目で「覗くための穴だ」というのだ。
2013年8月28日に、上森は出雲の歴史博物館に展示されていた銅鐸を使って、それを確認している。
「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・! 暗い中に焦点が1点に綺麗に映し出されたのです」
つまり、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められる、というのだ。遠くの観測点には、銅剣を立てておいたのであろう。この説ならば、穴の位置も合理的に説明がつく。
さて、これまでの定説では、銅鐸の上面の「舞」にある2つの穴も、「型持穴」だが、それらは内側から鐸身をたたく「舌(ぜつ)」という部品を吊り下げるための鎖かひもを通す穴も兼ねていた、とされている。
しかし、銅鐸を測量機器として見直すと、異なる説明も可能になる。
現在の測量でも、基準となる地点の地面には、石や金属で目印を設置する。三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして、位置決めをする。
上森によれば、銅鐸はその「レベル」にあたる器具であり、やはり、その中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置する。舞にある穴はそのために使われたのだ。
さらに、上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。
上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」に架け、次に鐸身横の「飾り耳」、さらに、下部の「刻み」に架けてから交差させる。同じ幅でそのひもを固定する装置を地面近くに作っておけば、交差したひもが触れ合うことで銅鐸はしっかりと固定されて安定し、きちっと観測点の方向を示す。
また、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。
おそらく、「飾り耳」を考えつく前には、鈕の穴と下部の「刻み」だけで、同じことをしていたのではないだろうか。やがて、ひもが固定しやすく、ひもの長さも調整しやすいようにと、現場の声を生かして、デザインが改良されて、「飾り耳」がついたのだろう。飾り耳は「飾り」ではなく、フックだったのだ。
上森は、銅鐸と一緒にしばしば出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として利用されていた、と考えている。また、銅鏡は光通信の道具でもあったのかもしれない。
上の写真は、銅鐸と同時代に作られていた青銅製品で、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれている。
釧(くしろ)というのは、腕輪のことだ。
沖縄など南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われている。
誰がどう考えても、腕輪としては形状が異常なだけでなく、危険でさえあるこの有鉤銅釧は、上森によれば
銅鐸を使った測量現場では大活躍の道具になる。
上森はこの有鉤銅釧を「銅鐸吊り金具」だったと見ているのだ。
前述のように、「舞」にあいている穴は、舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖かひもを通すために使えるが、神戸市渦ヶ森で発掘された銅鐸などのように、舞の裏側の中央に環がつけられているものでは、この穴を使う必要がない。
そこでこの「吊り金具」の出番となる。
適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておく。それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにする。そこに銅鐸を持ってきて、鉤の部分を舞にあいた2つの穴に両側から引っ掛けるのだ。
この組み合わせで、銅鐸の取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりせず、より使いやすくなる。
上森は言う。銅鐸は「倭国大乱」以前に使われていた測量機器で、最も進化した形で使われたのは、イエス・キリスト=大国主命が大王として国造りをしていた時代であり、キリストの死後、戦乱の中では測量さえもできなくなったので、地中に埋められるなどして廃棄されたのだと。
銅鐸とともに「ひも」も出てきましたね。
銅鐸にひも初確認
2000年前に埋められたとして、紐が完全に微生物に分解されずに残っていたことは、舌を鳴らすわずかの長さよりもっと長い紐ということが言えます。
ますます銅鐸は測量機器だったことを証明する発見ですね。
「銅鐸は測量機器だった!」と認識することで、新たな古代史の扉が開かれます。