2018年3月29日(木)
朝刊各紙にビラを入れます。
大山地区にある標高779mのドーム状に見える山、それが卑弥呼の陵墓です。
私は昨年の町長選挙に出馬しました。
初めての駅立ちには長谷駅を選びました。もちろん数人しか乗降者が
いないと知ってのことでした。そこで私は忘れることができない大きな
感動を得ることができました。
ホームに上がってきた学生さんに、「君、この山を越えたところに
卑弥呼の墓があるのを知ってるかい?」と尋ねると、「知っています」と
キッパリ答えてくれました。私は長谷駅に立ったことと、
町長選挙を通じて町民の方々に卑弥呼の墓や大国主命の墓などが
あることを伝えようとしたことが間違いではなかったことを実感しました。
卑弥呼の陵墓は、大山地区にある七宝寺から西正面に見える
標高779m地点にあるドーム状の山です。
魏志倭人伝には、「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と記載されていますが、2012年6月24日に神河町の有志の方々が測量してくれた墳丘長さ150m、高さ15m、後円部径100m、上円部径50m は、魏志倭人伝に書かれている墓の径と合致していますし、そこには山椒がたくさん自生していて、大猿やキジがいたという記述の情景は、現在でも当てはまります。
また、レーダーで地底探査も行いましたが、人工的な山であり、そこからは非鉄金属反応も捉えることができました。
私は、この山に婀月山(あづきやま)と名前を付けました。
そして今この婀月山の表土を取り除いて調査をしていますが、どこをはがしても表土の下から割栗石が出てきます。
何度か学芸員の方に会って説明もいたしましたが、「779mの高い山頂には古墳はありえません」と、聞く耳を持ちません。
でも、考古学者が現況を見れば、それは人工物であり古墳であることはもう一目瞭然です。現代の考古学の常識を覆す大発見が神河町大山にあるのです。
実は女王卑弥呼は、南小田の山頂にある大国主命などの墓守が主な役割でした。政治政体が奈良巻向で、国事国体は、播磨国風土記に記された埴岡の里なのでした。
魏志倭人伝の記述内容は100%正しいものです。
比叡山延暦寺根本中堂でご本尊様に手を合わせると、南小田にある大国主命に手を合わせるようになっていると前回書きましたが、実は、卑弥呼の陵墓も全く重なります。そして・・、姫路城の天守に刑部明神が祀られていますが、ここで手を合わせると、見事に卑弥呼の陵墓に手を合わせるようになっています。 つまり、姫路城は卑弥呼の陵墓に手を合わせるように築造されているということです。陵墓の麓にも刑部さんが祀られていますが、ここで手を合わせても卑弥呼に手を合わせるようになっています。偶然でしょうか。
また、卑弥呼の陵墓から、伊勢神宮内宮までの距離と、出雲大社までの距離とは、どちらもおおよそ193㎞で等距離です。 偶然でしょうか。 いえいえそうではありません。 これは緻密な設計の上での位置決めがなされているということです。
神河町は素晴らしい世界的歴史遺産の町なのです。
これらの歴史遺産を表に出すことで、ガイド業、民泊業などを通じて雇用の創出や、町だけでなく、我が国の活性化にも貢献できるものと私は思っています。
他から何をしてもらうかでなく、自分がこの町のために、この国のために何ができるかを、ビジネスを通して実践してみたいと思います。
神河町は誇りある素晴らしい町です。ご要望がありましたら聖地神河ひろばで、または、各地区の会館で映像を見ていただきながらご説明させていただきます。
どうぞ、お気軽にお声かけしてください。