2014年11月27日(木)
女王卑弥呼の古墳がある神河町の八幡山連峰の西麓に「 栗 」とういう集落があります。
ここ栗に今から3000年前に、カルクーと呼ばれた古代イスラエルの都サマリアの関係者でもあった私達の先祖が帰ってきたと私は考えます。
この方々は、カリア人、クリ人と呼ばれ、高句麗にも都を築いたようです。 高句麗のクリも栗も発音は同じです。
そして高句麗があった、現在の中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地である千山と、ここ神河町の栗との関わりに重大な秘密があります。
そのことを生命の樹(カバラ)という目には見えない設計図や巨大地上絵などで現代の私達に先人たちは古代の秘密を解けるようにしてくれていました。
そして、徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌こそ、生野、神河町の秘密を教えてくれていると私は推測します。
この歌が歌われた時代、1里を0,5㎞で計算すると、丁度現在の生野、神河町の境界あたりから丁度4.5㎞で栗に行きつきます。
九里きて栗に行って九里もどるとは、邪馬壹国の女王が住む都の地理的条件(栗から南は投馬国である)を教えていると考えています。
生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。
九里きて、栗行って、九里もどる。
朝日かがやき、夕日が照らす。ない椿の禰に照らす。
生野の谷から何が来た。
恵比寿、大黒、積みや降ろした。
伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。
生野の空から、御竜車が三つ下る。
サマリアの旧名はクリである。
・・・下記はウィキペディアより抜粋・・・
サマリア (Samaria) は、パレスチナのヨルダン川西岸地区の北部を意味する。
ヘブライ語ではショムロン (שֹׁמְרוֹן, Shomron)、アラビア語ではアッサマラー (السامرة, as-Sāmarah)。
サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語でサバスティーヤ (Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年の南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。
西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区をユダヤ・サマリアと呼ぶ。
「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。