Seasons

花鳥風月を撮りつづけると季節の移り変わりがわかるかも
でも風を撮るのはむつかしいので花鳥虫月だという噂も・・・

国宝阿修羅展

2009-04-05 | アート・文化
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東京都上野の
国立博物館平成館で
 興福寺<注1>創建1300年記念
 国宝阿修羅<注2>
が開催されています。

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展示は4章の構成で
 第1章:興福寺創建と中金堂鎮壇具(47点うち国宝42点)
 第2章:国宝 阿修羅像とその世界(17点うち国宝15点)
 第3章:中金堂再建と仏像(18点うち重文16点)
 第4章:バーチャルリアリティ映像「阿修羅像」
眼目は当然、第2章です。

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            会場案内図(クリックで拡大)

第2章には、脱活乾漆造<注3>の八部衆と十大弟子が
展示されています。
阿修羅像の周りには、3分程度しかいられません。
昔の上野動物園のパンダ状態です。

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             4月4日土曜日は
          10時前から入場40分待ち

6月上旬の閉幕まで
この混雑は続くのではないでしょうか。

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        第1会場から第2会場への途中にある
           大きなフィックス窓からは
            満開の桜が望めました





<注1>興福寺
興福寺の創建の由来は以下の通りです。
藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に創建した山階寺(が起源です。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)藤原京に移転して、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺と称しました。
和銅3年(710年)の平城遷都に際して、鎌足の子不比等(659年-720年)が厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けました。この710年が実質的な興福寺の創建年です。
不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺であった興福寺の造営は国家の手で進められるようになりました。
聖武天皇の皇后光明子(701年-760年7月27日))は、不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘です。八部衆像、十大弟子像は、光明皇后が天平六年(734年)に亡き母橘三千代の一周忌供養のために造ったものです。

<注2>阿修羅
阿修羅は、八部衆と呼ばれる、仏法を守護する8神のうちのひとつ。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に帰依し、護法善神となったものです。
通常に用いられるのは「舎利弗問経」を基本に、「法華経」や「金光明最勝王経」などの説により、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つを指します。英語では Eight Classes という表記がされています。
ただし、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は上述のものと異なり、寺伝では五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれています。

<注3>脱活乾漆造
脱活乾漆造とは、麻布を漆で何層も塗り固める技法です。
制作方法を詳しく説明すると次のとおりです。
まず、木製の芯木で像の骨組みをつくり、その上に粘土(塑土)を盛り上げて像の概形をつくります。この上に麻布を麦漆で貼り重ねて像を形造ります。麦漆とは漆に麦粉(メリケン粉のようなもの)を混ぜてペースト状にしたもので、接着力は強力です。麻布の大きさ、貼り重ねる厚さなどは像によって異なりますが、おおむね1センチほどの厚さにします。こうしてできた張り子の像の上に抹香漆(まっこううるし)または木屑漆(こくそうるし)を盛り上げて細部を形造ります。抹香漆とは、麦漆にスギ、マツなどの葉の粉末を混ぜたもので、木屑漆とは麦漆におがくず(ヒノキ材をのこぎりで曳いた際のくず)や紡績くずなどを混ぜたものです。奈良時代には抹香漆、平安時代以降は木屑漆が主に使わました。
なお、像の形が完成した後は、背面などの目立たない部分を切開して中味の塑土を掻き出し、補強と型崩れ防止のために内部に木枠を組みます。