世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

たんぽぽのキリスト

2023-08-11 04:18:30 | 月夜の考古学・第3館

小暗い林の 静かな小径を
幼いキリストが 歩いていた
歌いながら 笑いながら
頭には たんぽぽの冠
手には 芽生えたばかりの
青い若枝を もって

野原に面した 小径の隅では
足萎えの青年が
車椅子の容れ物に
けだるげに体を沈めていた
日和がいいから
少し遠出をしてみようと
ひとりでここまで来たのだけれど
美しくならされた平らな道も
彼にはひどく冷たくあたるものだから
体も椅子も きしきし傷んで
とうとう疲れて
ここで休んでいるのだった

こうして
世界の底の底で
目を閉じていると
自分はこのまま
水のように溶けてしまって
土の中に染み込んで
なくなってしまわないだろうか
指先から つま先から
潮のように霊魂を退かせ
青年は夢の中で死をこころみた
けれど
透明な膜のようなものが
どうしても残って
やはり全部はなくならないのだった

涼しい風が一息 青年の額をなでた
青年はふと目を開けた
夢うつつの気持ちに
金の光がしたたりこんで
ひばりの声が
ソーダ水の泡のように
ぷつぷつはじけて
その時ーー

一陣の 風に
林が 野が
ざあっと 目を覚まして
彼に向かって いっせいに
押し寄せてきた
風は 波のように
寝覚めの気持ちを 乱暴にかき抱き
熱い涙で いっぱいのほおで
激しく 強く
全身の キスをした

ーーああ……

光が
熱い 膠の
湯のような
光る
光る毬が
突然胸に 投げ込まれ
命が 指先まで
張り裂けるほど
びりびりと
満ち溢れ……

ーーだれ?

光に あえぎながら
青年は
弱々しく 声を出した
刹那 風がひらりとかわって
見ると
ばらいろのほほえみをした 幼子が
青年の胸で すやすやと眠っている

青年は驚いて あんまり驚いて
たましいが一気に 空に飛んでしまった
あんまり高く飛んだので
青年には
空が
磨かれた ラピスラズリの
とてつもなく巨きな 宮殿の
はるかな天井であることさえ
わかったほどだった

目が 覚めると
そこには
空にまで
溶けださんばかり
一面の たんぽぽの
 黄色
 黄色
 黄色ーー




(1998年)





この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ピンクの百合 | トップ | ツユクサ »
最新の画像もっと見る

月夜の考古学・第3館」カテゴリの最新記事