( 私の両親の結婚式の写真。叔父の2番目の姉。1947年頃。因みに新郎18歳、新婦17歳、両名とも死去)
さて叔父の性格なり人柄について余り書いてこなかったように思うが、私の知る限りでは、本当に温厚で優しい人であったように思う。だから私の兄弟も、従兄弟達も、叔父に対して親しみを感じこそすれ、悪感情を抱くものは1人もいなかったに違いない。私が叔父と言う存在を認識し始め、その記憶を脳裡に留める様になってから、2回目の留学生同盟の寄宿舎を訪ねるまでは・・・。
叔父に連れられて、初めて桂にある学生寮を訪れた時は、その寄宿舎の住人達にちやほやされ、誉めそやされ、私も、叔父の手前のお上手(いや本心から温かく接してくれたのかも知れない)だとも知らず、欲しいままに大言壮語、放言し、放埓に振舞えた心地よさに、知らず知らずそれを期してか2度目に単身訪れた時は、叔父に本当に冷ややかに迎えられた。叔父の怒気を含んだ刺すようなとげとげしい言葉や、険しく厳しい眼差しに初めて接し、心底、心臓が凍るような恐怖感を覚えた。それまで、ただの一度もその様な叔父の言動や眼差しを見たことが無かったので、その驚きや恐怖(いや本当に恐怖なのである)は、私を著しく動転させた。一刻も早くその場から逃げ去りたかった。
それから30分程して、叔父の眼差しはいつもの慈愛に満ちたものへと変わっていった。
その時の叔父の怒りの恐怖の眼差しは、それからもしばしば不意に私の脳裡に訪れては、私の背筋を凍らせた。以降、叔父の存命中に3度か4度激怒した様子を見たことがあるが、あの様な世にも恐ろしい、身の毛がよだつ眼差しを見たのは、あとにも先にもその時が初めてである。
恐らく、叔父を知る大多数の人々が、俄かには信じられない事だろう。私とて、それまでは叔父のことを、神様仏様の如く思っていたのだから。
さて、当時は医学部を卒業しても、直ぐには医師国家試験を受験できなかった。インターンと呼称される制度があり、大学を卒業しても1年間実地修練制度を受けなければならなかった。明確には断言できないのであるが、叔父は卒業後大学には残らず、また研究生活には入らず、地域の同胞医療に身を呈する積もりでいたようである。だから恐らく1年間義務付けられていた修練は、南区にある地域の診療所で、履修したようである。その時には既にウリマル(母国語)も、日常会話に支障が無い位のレベルに達していたようである。瞼を閉じると当時、我が家に宿泊して行った折にも朝早く起きては、布団の中で書物を読みながら何やらぶつぶつ呪文めいた言葉を、小さく発していたのを思い出す。後にそれが朝鮮語であることが分かった時には、本当に感服した。叔父は努力の堆積がそのまま叔父と言う姿形を取っているに過ぎないのである。即ち叔父とは努力、努力が叔父なのであると言わしめるほど叔父は努力家、努力の人なのであった。この点に関しては叔父を良く知る人は決して異議を唱えることはないであろう。
インターン制度を履修した叔父は、大学に残ることや研究生活に入ることはせず、臨床医の道を志す事になるのである。地域医療は勿論であるが、異郷の地で、あらゆる差別や迫害を受け、貧困に喘ぎ肉体を酷使する同胞の健康維持、増進の為に、病める同胞の闘病生活に献身的に滅私共闘、尽力するために、同胞医療の道へと志すのである。
当時、否現在もそうであるが、京都市南区東九条周辺、俗称トンクジョウと呼ばれる地域がある。在日朝鮮人・韓国人が多く暮らしていたので、地元の在日の人達が「東九条」の事を母国語で、「トンクジョウ」と呼んだのであるが、その地域の中心に、在日が病気になれば良くかかる医療機関がある。あると表現するのは、現在もその医療機関が存在するからである。その名も「医療法人京都共和会 ○ノ○診療所」
叔父は難病に倒れるまで、この札ノ辻診療所を舞台に、同胞医療、地域医療に専念することに相成るのである。(続く)
さて歌の再生表ですが、昨夜寝床の中でその事について、色々な思いが去来してきまして、はてさて一体私は何の為にこの様な表を作り、几帳面にも2年余りも克明に記録し続けて来たのだろうかと言うことから始まり、それが何か意味があることなのだろうかと、あれやこれや、ああでもないこうでもないと思案した挙句、結論的には、1人でも再生して下さる人士がいらっしゃる限り発表し続けて行くことにしました。
このブログを読んで下さる諸賢や各位、また楽曲を再生して聴いてくださる皆様方に心より感謝の言葉を申し述べます。