作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「父の日」愛妻への思い。

2011-06-18 20:57:34 | Weblog
 本当に参りました。朝 絢詩さんには。
娘夫婦と家内と長男とで近所のカラオケ屋さんに行ったところ、娘が写真を撮ってくれていたんですね。そこでYou Tubeをみておられる各位の中には「趙さんてどんな面相をした人でしょうか、猿の画像で(人生一度)という楽曲を歌っておられますが、その様な顔貌をしたお方でしょうか」と言うお人がおられますので、家族と相談しましたところ、あえて「宇治川未練」と言う楽曲にのせて、公衆の面前に晒すことにしたような次第です。今後とも宜しくお願い申し上げます。
さて朝 絢詩さんから次のようなメールが来ましたのでご紹介申し上げます。
「朝 絢詩」さん!良い奥さんが傍におられて幸せですね。大事にしてあげてください。

 午前中、妻と京都駅の伊勢丹に行って来た。生憎と雨模様の天気だったが、小雨だったので気にはならなかった。勤務している時には、室内作業の勤務だったのにも拘らず、空模様には神経質だったのであるが、勤務を辞めてからも、大抵は屋内に居て、徒に無為に時を費やしているにも拘らず、相変わらず気になるのであった。
 実は、明日は「父の日」であるらしい。(あるらしいと今日まで全然知らないように書いてはいるが、本当はずっと以前から知っていたのである)それで妻が、ウォキングシューズを買ってあげるので、伊勢丹に行きましょうということになったのである。妻が言うにはいつも同じシューズを穿いて散歩しているのが、以前から気になっていたと言うのである。では何故伊勢丹かと言うと、やはり一流デパートの品物は違うと言うのである。私自身はどこで購入しようと、同一ブランドと言うか銘柄なら同じだと思うのであるが、妻の考えは違うのである。でも最近私も暇を持て余しているので、妻の申し出に従うことにした。
 伊勢丹は私の予想に反して、比較的空いていた。明日が「父の日」、そしてそろそろお中元シーズンである。9時半少し過ぎて家をでたので、デパートに着く頃には、ガレージに駐車するにもかなりの時間を要するだろうと想像していたのだが、比較的空いていて、少しも待つことなく駐車できた。
 結局妻はシューズを買うことはしないで、開襟シャツとズボンとカラフルナステテコを「父の日」のプレゼントとして購入してくれた。
 「ありがとう」と私は心を込めて謝辞を述べた。照れくさいので蚊の鳴くような声で。
 それでも妻には聞こえたみたいで「いいえ」としっかりした声で応えてくれた。
 昼食は家の近くの「スシロウ」で取った。本当は妻の好きなイタリア料理やフランス料理を伊勢丹で食べれば良かったのだが、デパートでの洋食は高くつくので、「スシロウ」で納得してくれた。
 寿司を食しながら、妻は感慨深げに言った。「勤務していた時は、よく帰りに伊勢丹に寄ったんだけれど(妻が勤務していた職場は女性の足で歩いて15分くらいの場所にあった)現在は殆ど行くこともないし」
 「本当にお金って良いね。ああ、宝くじでもあたらないかしら」
 妻よ。申し訳ない。私の責任で職場を退かなくてはならないはめになり。収入も全く途絶えてしまって。本当に私の責任だ。妻の悪意のない何気ない一言一句に、ただただ恐縮するばかりだ。あまつさえ、無理難題を吹っかけては困らせている日々の私の横柄で、狭量で品格の無い言動の数々。
 「後、人生どれくらい生きられるかはしらないけれど、生きてる限り、愛して愛して、きっと幸せにしてみせる」
 寿司をほおばりながら心ひそかに誓う私であった。

 さて、例の趙さんである。私がこの様なブログの文章を認めたとメールすると、失礼にも「ほんとですか。いつもそう言ってる様な気がするよ。でも今回はその言葉を信じましょう。奥様を幸せにしてあげてください」と返信してきました。
 また趙さんは、「(宇治川未練 本人が歌ってます{You Tube})で自分の画像を公開することにしましたので、その出来具合を批評してみてください」ともメールしてきました。
あれほど、「その醜怪な面を公衆の場に晒してはいけませんよ。公害と一緒ですよ」と忠告してきたにも拘らず、公衆の面前に披露してしまった恥知らずの暴挙には、二の句がつげません。下手物趣味の方は、どうぞご覧になってください。でも良い歌です。
 

小学校時代

2011-06-08 13:31:43 | Weblog
 今から認めますことは、もう何十年も前の出来事です。ですから大昔のお話ですが、最後までお読みくださればありがたく思います。
 私は京都生まれですが、まだ幼少の頃に、両親に連れられて大阪に、妹ともども引越してきました。そこは、沖縄出身の人が沢山住んでいた大正区と言うところでしたが、私が小学校に上がる前に、大正区から他の区にまた引越しをしました。結局私の両親にとってはそこが「終の棲家」となりましたが。
 さて私がここでお話したいことは小学校の頃の出来事の話なです。
私達がこの区で住むことになったのは、8軒位屋根や壁の連なった長屋だったんですが、私達は丁度真ん中ぐらいに位置していた平屋建ての家屋に居住していました。その家屋は賃借だったのか、買い入れたのかは、現在の私には良く分からないのですが、ただ小学校が徒歩で一分くらいの所にありました。極端な話、始業式の鐘が鳴り始めてから玄関の戸を開けて駈けていっても十分に間に合うくらいの距離にありました。その学校はM小学校と言い、5年生の終わりまで通学しました。と言いますのは小学校の残りの1年間は、S小学校に転校して通ったのです。時間にして私の家から徒歩で、片道2、30分くらいの距離の所に在りましたが、そちらの小学校に通うことになったのです。昔で言う越境入学でした。
 詳しくは分かりませんが、当時学区制になっていて、6年になるまで通っていた小学校にそのまま通学して卒業してしまいますと、次に上がる中学校が決まっているのでした。ところが私の両親が、最初通うべき筈だったT中学校が、余りにも出来が悪く、また暴力学校と言う、いわゆる「風評」が広がっていましたので、未だすこしでもましなS中学校に入学させたくて越境させたのです。
 前置きが長くなりましたが、今回書きたかったのはこのS小学校での出来事なのです。
 いわゆる越境入学した私はその小学校に通い始めたのですが、内心一刻も早くそのクラスに打ち解けたいと思ったのでしょう。そうすると、誰でもそうだと思いますが、人より目立ったと言いますか、注目を浴びたい、惹きつけたい行動に出てしまいがちです。でも私はそのS小学校で乱暴な行動に出たり、喧嘩等をしたりしたことは一度もありませんでした。ただ日常の言動で、一挙手一投足が派手になったり、また大胆になったり、一言一句を誇張したり、粉飾したことはあったかも知れません。それは先述しました心理状態からでした。本当のところを言えば、日々孤独な状態にあり、淋しかったんですね。
 結果、何人かの友達ができましたが、6年生の3学期の終業式の通信簿の欄の担任感想欄か批評欄に書かれていました。「甚だ乱暴なところがあり。他の生徒と諍いまでするようになり云々」と。
私はそれを読み、小さいながらも、非常に切ないと言いますか、悲しい思いをしたことを記憶しています。
その感想欄を読んだ私は心の中で悲痛な叫び声をあげていました。
「違うんだ。違うんだ。ただ淋しかっただけなんだ。友達がほしかっただけなんだよ。違うんだ。違うんだ!諍いなどしたことはない。先生は何にも分かっちゃいないんだ」
子供時代から私は人一倍内気で、弱虫で、泣き虫で、臆病で、神経質な子供であったことは認めますが、決して意味もなしに、他人に暴力をふるったり、いじめをするような子供ではなかったことは、いま改めて、ふたたび天地天命に誓いたいと思います。
 当時の小学校6年生の担任の先生(お名前は忘れてしまいました。でもお顔の輪郭や造作ははっきり覚えています)!
これで真実の私を分かっていただけたでしょうか。趙 顕市(当時は通名で通っていた)は正真正銘良い子でした。もし今尚ご存命され、当時の私のご記憶をお持ちなら、お改めくださるよう切にお願い申し上げます。切に切に。

 さて話は変わりますが、私はYou tube様に、2010年の7、8月頃から私の自作曲をどなた様にでも聞けるようにしていただいております。曲数はそんなに多くは無いんですが、紹介させていただきたいと思います。それと11年6月7日までのご視聴回数を記してみたいと思います。
  Ⅰ、「人生一度」蝉、猿の二つの画像あり。ご視聴回数6202回
  Ⅱ、「愛別釜山港」日本語、韓国語バージョンがあり。ご視聴回数1385回
  Ⅲ、「哀別釜山港」ご視聴回数365回
  Ⅳ、「宇治川未練」ご視聴回数522回
  Ⅴ、「野ばらおまえたち」ご視聴回数209回
  Ⅵ、「野ばらあなたたち」ご視聴回数150回
  Ⅶ、「愛恋讃歌」ご視聴回数148回
まだお聴きではない各位には、一度ご拝聴たまわりますようお願いもうしあげます。またそれぞれの曲は一切市販しておりません。ただYou tube様のみにてお聴きいただけます。
お聴きいただき、各位に口ずさみ、唄っていただけるならば幸甚です。でも、現在カラオケ化されていませんので、カラオケ化出来ますようご協力ご支援いただけますようお願い申し上げます。