作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係その14」「私の歌の再生回数表その24」

2013-03-31 14:14:48 | Weblog
 

 日が経るに付け、私の記憶は段々と曖昧になってきますが、前回は私が、医療法人京都共和会の正規所員に採用され、また叔父宅によく泊まらせて頂いたと言う様な内容のブログを書かせて頂きましたが、それから2~3年後には、遂にS病院傘下に在った「我が診療所」が独立することになります。
 叔父が独立を決意した1番大きな理由としましては、何か物事を決定するにあたって、自らが自主的に判断を下して、実行したいと言う思いが強かったように思います。何か1つの事を実行しようと思っても、どの様な些細なことであれ、S病院にお伺いを立てねばならないという従来の方式では、とてもではないが、叔父が抱いていた医療に対する理念と言いますか、構想と言いますか、それらの実現は限りなく不可能であったからです。
 また、私の初任給を知らされた所長が次のように言ったことを思い出します。
「こんなに安いのか!」
叔父としましては、4流であれ4年生の大学を出た私の初任給が、自身が想像していたよりかなり低かった事に、少なからぬ衝撃を受けていたようです。また、その事に関して、自身が何等の関与も出来ないことに。それらの事も一因として働き、叔父の性格からして熟慮に熟慮を重ねて下した判断であったように思います。
「独立しよう」
 叔父はある時私に命じました。
 「S病院の経理室に見習いに行って来い」と。
それから3ヶ月間程、隔日だったか、週に2~3回だったか忘れましたが、S病院の地下室の経理室に見習いに行きました。
 この時に非常に役立ったのは算盤でした。勿論、当時も計算機は有りましたが、現在では100円くらいから、日常普通に使用するには何等支障の無い物が売られていますが、当時はかなり高額で、その地下の経理室には置かれてあったか、記憶が定かではありません。
 とに角、今は亡き母親が小学生の時にそろばん塾に通わせてくれたお陰で、本当に助かりました。一般簿記は大学の時にある程度学んでいたので、余り苦労せずに済みました。ただ、机上で学ぶのと、実際にやってみるのとでは多少違いはあり、最初は恥ずかしいと言う感情もあり、その面では少しうろたえ、とちりましたが、そう日を経ずして終えることが出来ました。参考に言えばそろばんは2級程度ほどで、簿記もこれまた2級程度ほどの実力でした。いや簿記は3級くらいだったかも知れません。
 さてその地下の経理室は、重い鉄扉を開けますと部屋の真ん中、東西に向かい合わせに事務机が4脚と、奥の南側に普通の事務机を二つ併せたぐらいの大きな机が1脚ありましたが、それはS病院の事務長の机でした。要するに地下の経理室には3名の事務員と事務長、都合4名が在室していました。そこで空いていた一脚の机と椅子が私に宛がわれて、私は当分の間、医療簿記の習得に勤しむ事となるのです。
 当時の事務長は、既に他界されましたが、最初私に数字を書かせると、
「これはあかんわ。数字の書き方から勉強せなあかんわ」と言い放ったものです。私は恥辱で真っ赤になったものですが、その後も上達せず現在に到っています。また、数字もそうですが文字も下手糞の極致で、小学生の頃に習字を習ったにもかかわらず、とてもじゃないですが、人様にお見せできるような代物ではありません。だから、ワープロなるものが世の中に出回った時には、叔父にねだっていの一番に買い求めたものです。お恥ずかしいですが、こんなエピソードもありました。朝鮮の気難しそうな面持ちの老人ですが、普段は非常に温厚な方だったのですが、薬局を担当していた私にこう言い放ち、怒りを露にしました。
「お前は、人の名前を何と心得ておるのか。分かるような字で書きなさい」
 そうです、創氏改名を強いられた朝鮮人・韓国人には、姓名と言うものに対して、特別な思い入れがあるのです。
 私は平身低頭その方に心から詫びながら、心中こう誓いました。
「そうだ。朝鮮・韓国の人にとっては姓名は特別の思い入れがあるのだ。これからは一字一画真心込めて、丁寧に書こう」
 当然の事ながら、それからは朝鮮・韓国の人達だけではなく、日本の方の氏名も真心込めて書いたことは言うまでもありません。
 さて稿を元に戻しましょう。
 私は、ある人曰く「熱しやすく冷めやすい」性格だそうですが、「当たらずといえども遠からずで」、3名のうら若き?女性に、たちまち親近感を感じてしまったのです。でも私はどちらかと言えば、異性に関しての美的価値観が偏向していまして、誰にでも友愛は感じはしますが、それ以上は、大抵の場合進展することがありません。
 それと私は日本の方には一定の距離を置いてお付き合いする傾向があり、反対に同族には盲目的に溺愛してしまう性向があるようで、恐らく日本の方には知らず知らず身構えてしまう所があるんですね。恐らく家庭環境等、後天的に培われてきた性質でしょう。何かに阻まれ、どうしても一線を越えてお付き合いすることは出来ませんでした。かと言って朝鮮・韓国の方と親しく付き合っている人が居ますかと問われますと、現在は、家族、兄弟以外は誰一人親しく付き合っている人は居ません。ただ最近FaceBookを通じて沢山のお友達が出来たことは大変嬉しく思います。あっ、話がまた逸脱してしまった。それじゃこの続きは次回に。

 その後「非通知」電話ですが、この月の22日に1回あったきりで、その後は途絶えています。とに角受話器を取り上げても、既に切れているので対応の仕方がありません。

 さて各位へ。謹んで、いつもながらのご報告をさせて頂きます。YouTubeでの再生回数は、3月30日現在34336回に上っています。特に今回27日から28日にかけまして108回の再生回数を記録しました。先日の125回に続きまして今月2度目の100回超えです。この感謝の気持ちを如何に表現すれば良いのか戸惑っています。本当に有難う御座いました。
特に、朝(あさ)絢(けん)詩(じ)さんのブログに書かせて頂いたのですが、統計を取り始めてから、14日から15日の再生回数125回は、1日の再生回数としては、過去最高の再生回数だと思います。心からお礼の言葉を申し述べます。有難うございました。今後とも宜しくお願い申し上げます。また「花さながらの君」、「君に捧げる歌」「郷愁」その他2曲、計5曲YouTube様に、顕(けん)市(いち)趙(ちょう)で貼り付けて頂きました。もし宜しければそちらの楽曲も1度お聴き下されば幸甚です。経済的な事情で編曲は出来ていませんが、30代前半にギターだけで吹き込んだ曲なので、コードを違えたり、テンポが違ったり、音質が悪かったりして、お聴き苦しい点は多々ありますが、ご寛恕下さい。17日から19日の欄は空白になっていますが、娘の用事で釜山に行っていましたので、数字が拾えませんでした。悪しからずご了承下さい。
 今後ともご指導、ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。
 
 

「私と叔父の関係その12」「私の歌の再生回数表その22」その他。

2013-03-05 10:53:24 | Weblog
 さて、診療所で正規職員として入所した訳ですが、確か基本給は7万円そこそこだったと思います。それに交通費が付いていました。
当時私は、大阪の西成に住んでおり、そこから通っていました。勿論交通費は全額支給されるわけではなく、給与と認定されない範囲で支給されていました。後は皆勤すれば3000円、当直手当が幾らだったか忘れましたが付いていました。
勤務は2交代制で、午前中に出勤する者は「早出勤」、午後から出勤する者は「遅出勤」と呼ばれていました。早出勤は8時から17時、遅出勤は13時から20時30分だった様に思います。診療時間帯は、午前中は9時から11;45分、午後は18時から20時30分だったように思います。勿論現在のように週休2日制ではなく、毎週月曜日から土曜日の夜まで朝、晩診療していました。週に1度は深夜診療も有り、急患や、往診の依頼があれば出動していました。当時はそれが当たり前で、私もなんの疑問も感じませんでした。
ただ、現在は当時の記憶が曖昧で良く思い出せないのですが、私は水、土、日は実家に帰っていて、それ以外の曜日は、多分診療所の真横に隣接していた民家があったのですが、勿論医療法人京都共和会の所有の家屋で、同じ歳の従兄弟と同居していて、そこから通っていたと思います。当時医療法人名義の一軒家、寄宿舎が、診療所以外に3軒在りました。主に医師用として使用していた様で、それらの所在地は遠くても、診療所から5分以内の所に在りました。
私が正職員に成った当時は、ドクターは4人位いたように思います。ドクターは1単位(午前中及び午後の2時間30分を1単位と称していた)、2万円だったか3万円だったか明確には思い出せませんが、かなりの高給だったので驚愕したのと羨望を覚えた事を思い出します。でもこの事、給与の実態の事は後になって分かったことですが。
(私のこのブログは、なるべく時間の経過(現在の言葉で言えばタイムラインと言うんでしょうか)を遡って忠実に描写しようと思っていますが、時には時間が前後していて、非常に錯綜している部分がありますが、ご容赦下さい)
当時所長は、代診の先生が診察している間は、京大の第3内科の研究棟で、河合教授?の下で、ラットを使ってレニン活性の研究をしていました。レニンと言う物質は高血圧(昇圧作用があることはその時既に判明していた)に関係があるのじゃないかと、研究等の一室で研究を重ねていたのです。当時は現在の様な美しくて立派なコンクリート作りの研究等ではなく、古びた木造立ての研究室で地下にあったのだが、部屋に入ると何か得体の知れぬ動物の臭いがしていた。用事があって何十回とその研究棟を訪ねたのだが、最後までその臭気には馴染むことが出来なかった。
当時の所長の住まいは、嵐山にあり、嵐伝の嵯峨駅か嵐山駅付近に在った。勿論自身の持家ではなくて、S病院の所有物であった。所長は来訪者が好きだったのか、本当に良く泊まらせて頂いた。
結婚した当初は、所長は修学院に現在で言うマンションを借りて、住んでいたのだが、無職だった私はそこにも呼ばれて泊まりに言った事がある。
終の住まいとなったのは、京都市東山の五条であった。
さて、話はまた逸れてしまいましたが、今回はこれ位にしておきましょう(次回に続く)

ごく最近の事であるが、少しまた娘のところにでも行ってみようかなと思い、以前にもお世話になった事のある大手旅行斡旋代理会社に、PCで予約を取ってみたところ、最後のクレジット番号?(実際は何が原因か分からない)のところで引っかかり、10回以上試みたが入力できず、疲労困憊の果てに断念した。半日くらいは悪戦苦闘したであろうか。
しかし、安倍のミクスの影響か、日を、時を追うごとに円安傾向が強まっていくので、一刻も早く手続きをしたかったので、その超大手旅行斡旋代理会社の窓口となる電話番号を探してみたが、いくらPCで検索しても分からないので、104で尋ねたところ東京本社の電話番号しか分からないと言うので、その番号にかけ、応対に出た女性に旅行部門の電話番号を尋ねたところ、こちらから電話をさせて頂くとの回答を得、早急にお返事して下さるようにと受話器を置いた。ところがいっかな返事が来ない。たまらず104に電話して再び本社に電話を掛けたところ、次には男性が出てきたので、調べましてお電話くださるということだったので、待っていたところ、今度は直ぐに電話が掛かってきましたが、記録を調べたところ、連休の日にその様な記録は残っていなかったとの回答でして来たので、すったもんだの挙句、語気荒く今後の対応策を要求して電話を切ったと言うような事がありましたが、今から思いますと、もう少し口調も柔らかく、紳士的に対応しておけばよかったなと、後悔と反省をしております。遅くなりましたが本当に申し訳ありませんでした。さぞ御気分を害された事でしょう。でも私がお願いしました改善策の検討もよろしくお願いします。特にエラーの内容を表示下されば有難く思います。それと緊急の場合の連絡先をも。どうか宜しくお願いいたします。
 また、上記の様な出来事があったころからなのですが、「非通知」の電話が2,3回掛かって来ました。受話器を取ると、既に切れています。
 またこの2年間、YouTube様に掲載させて頂いていますどの楽曲にも高評価、低評価の数字に変動は無かったのですが、気が付いたのは、やはり上記の様な出来事があったころからなのですが、韓国語で唄っている「愛別釜山港」と言う楽曲2種類に、それぞれ低評価が1回ずつ、同じ曲名の同じ歌手の日本語で唄っているバージョンには、貼り付けさせて頂いてから評価無しだったのに、いっぺんに高評価が3に成っているのです。繰り返し言いますが2年間全く変動が無かった楽曲にですよ。単なる偶然でしょうか。不思議といえば不思議です。

 さて私はある時、父方の叔母に言われた事があります。「おまえの作る歌は、何か物悲しいな」と。でも過去に作曲した歌の中には、結構明るい歌や、ロック調の楽しい歌もあるんですよ。現在は20年以上も楽器は弾いたことが無いのでご紹介できるかどうか自信はありませんが。
 第22回の歌の再生表を、謹んでご紹介させて頂きます。再生して下さる各位には、心より感謝の言葉を申し述べさせて頂きます。本当に有難うございます。引き続きご支援、ご配慮賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
 また近々ギターシリーズ第2作目と、「野ばらおまえたち」の韓国語バージョンをご披露させて頂きますので、併せてご支援、ご配慮賜りますよう宜しくお願い申し上げます。恐らく発表名は「顕市趙」となるかと思います。
 尚、3月5日、10時40分現在、私の歌の再生回数は32950回に上っています。謹んでお礼を申し上げます。有難うございました。