思い起こせば、去年の5月20日が、叔父が鬼籍に入った日だと思いますので、今日で身罷ってから丸1年になるかと思います。時の経つのが余りにも速いので、ただ々驚くばかりです。
私と叔父の関係の中で生じた様々な出来事を、仔細漏らさず克明に記録しておこうと思い立ってから1年、ブログを読み返して見ますと、殆んど枝葉末節な事柄だけを描いて来て、肝心な叔父の人間像は殆んど描けてなかったように思います。
1年間を通して、お読み下さった読者各位には、お詫びと共に、有難く厚く御礼申し上げます。
こんな事も有りました。私が未だ20代半ば頃だったでしょうか。当時私達親戚の中でも、比較的裕福だった私の所と、私の4番目の叔母のところご夫婦と、叔父の家族とで、自動車を駆って近畿や北陸、四国にえと、よく温泉旅行に出かけました。叔父には長男、次男が誕生していたかも知れません。
旅館では、部屋は叔父夫婦ところだけは別に取り、私の家族(家族と言いましても私の両親と私だけでした。他の兄弟は何故か行きたがらなくて留守居を守っていた)と、4番目の叔母夫婦は同室でした。夕食、朝食はどの地域のどの旅館でも、大広間で私達3家族で取りました。夕食を取った後叔父は、大抵私にこう声を掛けるのです。
「けんぼう(私は小さい頃はこの愛称でよばれていた。{けんちゃん}とも呼ばれていた)、一寸外へ出て見ようか」と。
その言葉が後には反射的に何を意味するのかを了解していましたが、最初は「温泉情緒でも味わいにいくのかな」と思い付いて行きました。
叔父が私を伴って訪れた所は、女性が、踊りながら一枚一枚被服を脱いでいく所でした。最初は本当に驚きました。聖人君子の様に思っていた叔父が、まさかこの様な所に足を踏み入れるとは、夢にだに思ってもいませんでしたので。しかし、温泉旅行に行く度に、その様なお声がけが、2度3度と重なってきますと、「あっ、例のところやな」と私も慣れてきて、2人して連れ立って出かけて行きました。
1度叔父が言った事があります。
「京都では、絶対に行けないからな」
日々、診療や、経営等で常に神経を張り詰めなければならない叔父。しかも先述しました様に、聖人君子以上に誰からも敬慕されていた叔父は、極度に神経の張り詰めた状態でいた為、日々大変に疲弊していたのです。叔父そのものは、私は胸を張って断言することが出来ますが、品行方正、清廉潔白なお人であったと思います。でも本質は、何人とも変わらない普通の人間であったのです。私は現在でも尊崇の念を抱いています。
しかし、場末と言いますか、地方の温泉郷におられるこれらの人達の殆んどが、乳母桜でした。それも、からからに干からびた乳母桜でした。中には目のやり場に困るような痛々しい、老婆に近い女性もいました。
後に思ったのですが、叔父は私への社会勉強も兼ねて、引き連れていったのでしょう。
暫くお会いしていませんが、叔母や、叔父のご子息たち「ご子息と称するのは照れるな」
いや従兄弟達、元気で頑張っていることと思いますが、私が上記の様に、あなた達の「アボニン(おとうさま)」のほんの一部の側面を描いたからって、立腹しないで下さい。あなた達のアボニンほど人格高潔な人を私は未だ知らない。あなた達のアボニンほどあなた達や親類や友人、同胞に温情や慈しみを以って接した人を私は知らない。あなたたち、私達はその様な人の息のかかるところで生活できた事を、至上の喜びであったと感ずるべきだと私は思います(続く)
さて私の歌の再生回数は3万7千回を突破し、5月26日現在37411回に達しています。これも偏に、各位のご支援のたまものだと思っています。今後とも宜しくお願い申し上げます。
それと以前から予告していました「64才の愛恋賛歌」と「野ばらおまえたち(韓国語Ver)」を、YouTube様に貼り付けさせて頂きましたので、1度お聴きくださると、大変ありがたく思います。ただ、録音の何かが悪かったのでしょうか、「野ばらおまえたち(韓国語Ver)」が私のPCでは、非常に音量が小さくて、お聴き取りにくいかと思われますがご容赦下さい。それと喉の状態が完全に復調していないのと、歌唱の技術的な問題で、相当お聞き苦しいかと思われますがご容赦下さい。これらの楽曲も、他の楽曲同様末永くご愛唱下されば幸甚に思います。