時々、悲しい思いがふとこの胸をよぎる事がある。私が4歳の頃だったであろうか。大阪大正区の三軒家に住んでいた頃のことである。妹と二人で広っぱで遊んでいた頃のことである。焚き火の燃えカスの上で遊んでいたのであろう。穿いていたコールテンの長ズボンに火が付いて右下腿の4分の3が真っ赤に焼け爛れた。聞いた話では、余りにも悲痛で尋常じゃない大きな泣き声を聞きつけた母親が、炎に包まれた私を発見してくれ、火を消してくれたのだと言う。少しでも発見が遅れていたり、けたたましく泣き喚くわたしの声を聞きつけなかったら、わたくしは既に、とうの昔にこの世の人で無かったであろう。そして、その後のしばらくの間の記憶がない。
この火傷がわたくしの下腿に刻み付けた刻印は、その後何十年とわたくしを苦しめ悩ませた。それは、小学校の低学年、恐らく2年生くらいではなかったろうか。身体検査があり、パンツ1枚でそれを受けるべく起ち並んでいたわたくしにひとりの同級生の女の子が寄り添ってきて、わたしの耳元で囁いた。○○ちゃんが松山君のやけどのこと「気色悪い」と言っとったよ。あまりにも強い衝撃の言葉で、わたくしはその場にへたりこんでしまいそうだった。しかもその言葉を投げつけたのが、わたくしがひそかに淡い思いを寄せていた、そうわたくしにとって初恋の人と言っても良いくらいに思っていた可憐な同級生の少女だった。
その瞬間からわたくしの人生は大きく変わった。大袈裟ではなく、人生観が一変したのであった。そしてそれからというものは、いち二回の例外を除いて、長ズボン1本だけで四季を過ごした。焼け付くような真夏の猛暑の日々も。二三度の例外を除いてプールにも行かなかった。海に連れて行ってもらっても、水着姿にはならなかった。だからわたくしは、未だに金槌である。
今日胸をかすめた悲しい思い出は、中学1年生の運動会のときのことである。運動会は半パンツを着用するようになっていた。だからわたくしは、担任も、母親にも運動会は欠場する旨伝えていた。母親が運動会の当日の何日か前に担任に会いに行ったらしい。そして、経緯をつたえた。二三日後。放課後、人気が無い教室に担任に呼ばれ、ズボンをめくりなさいと命じられ、嫌々火傷の痕を担任に曝け出した。そしてわたくしに言った「なんやそれ位なんともあらへんや」「運動会には半パンツで必ず参加するんやで」わたくしは渋々承知した。
運動会当日わたくしは半パンツで参加した。担任に命じられた通り。ただし膝関節までのソックスを穿いて。そしてソックスの上部をきついゴムで縛って。考えに考えた苦肉の策で・・・。
この火傷がわたくしの下腿に刻み付けた刻印は、その後何十年とわたくしを苦しめ悩ませた。それは、小学校の低学年、恐らく2年生くらいではなかったろうか。身体検査があり、パンツ1枚でそれを受けるべく起ち並んでいたわたくしにひとりの同級生の女の子が寄り添ってきて、わたしの耳元で囁いた。○○ちゃんが松山君のやけどのこと「気色悪い」と言っとったよ。あまりにも強い衝撃の言葉で、わたくしはその場にへたりこんでしまいそうだった。しかもその言葉を投げつけたのが、わたくしがひそかに淡い思いを寄せていた、そうわたくしにとって初恋の人と言っても良いくらいに思っていた可憐な同級生の少女だった。
その瞬間からわたくしの人生は大きく変わった。大袈裟ではなく、人生観が一変したのであった。そしてそれからというものは、いち二回の例外を除いて、長ズボン1本だけで四季を過ごした。焼け付くような真夏の猛暑の日々も。二三度の例外を除いてプールにも行かなかった。海に連れて行ってもらっても、水着姿にはならなかった。だからわたくしは、未だに金槌である。
今日胸をかすめた悲しい思い出は、中学1年生の運動会のときのことである。運動会は半パンツを着用するようになっていた。だからわたくしは、担任も、母親にも運動会は欠場する旨伝えていた。母親が運動会の当日の何日か前に担任に会いに行ったらしい。そして、経緯をつたえた。二三日後。放課後、人気が無い教室に担任に呼ばれ、ズボンをめくりなさいと命じられ、嫌々火傷の痕を担任に曝け出した。そしてわたくしに言った「なんやそれ位なんともあらへんや」「運動会には半パンツで必ず参加するんやで」わたくしは渋々承知した。
運動会当日わたくしは半パンツで参加した。担任に命じられた通り。ただし膝関節までのソックスを穿いて。そしてソックスの上部をきついゴムで縛って。考えに考えた苦肉の策で・・・。