作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係第27話」「私の歌の再生回数表第49回」その他「いじめと家出」

2014-03-15 20:36:34 | Weblog

 以前「私と叔父の関係第26話」を書き綴りましてから、かなりの日数が経ったと思われすが、今回書かせて頂く文章と、少し脈絡が不自然な箇所があるかも知れませんがご容赦下さい。
 確か前回は叔父の思想的内容について書いたように思いますが、今回は叔父が所属していた医学協会京都支部の事について少し書いて見たいと思います。
医学協会京都支部の会合は、叔父の指導の下、原則的にはひと月に1度、診療所の会議室で開催されました。それは叔父が逝去するまで継続して開かれました。
 会議は21時からで、それぞれの役員が参集してきました。私も役職を担っていましたので、毎月必ず参加しました。役員の顔ぶれは決まっていまして(でも会長は3回ほど変わりましたが)叔父である所長と、滋賀県で病院を営む○○先生と、山科で歯科医を経営する○○先生と、京都市右京区の西院にある、比較的規模の大きな病院で薬局長をしていた○○先生と、京都市の北区で鍼灸整骨院を営む先生とで、会議は運営されました。
 会議と言いましても名ばかりで、毎回それは実質10分程度で終わりました。終わるや否や各役員達の殆んどの先生方が、診療や業務を終えて食事をも取らず、直ぐ様駆けつけて来て下さっているので、あたふたと診療所の近くの飲食店(大抵はその当時、同胞が経営していた「たこやき店」)に足を運び、その小さなお店の暖簾を潜って一番奥の突き当たりの座敷に銘々席を陣取り、先ずはビールで乾杯して、たこ焼きを肴に酒宴が始まるのが常でした。
 アルコールの摂取が進むにつれ、本格的な論戦が交わされるのが、これまた何時ものことでした。私を除いて論客揃いの先生方ばかりであったので、口角泡を飛ばしながら、侃々顎々と激論を戦わすのです。大抵は朝鮮半島(韓半島)を巡る話題でしたが、それに留まらず、世界の政治、経済、医療、芸能と多岐に亘り、要するに何でもござれで意見が戦わされました。戦われる意見の内容は非常に高度な次元のもので、且つ真摯なものでありました。叔父も普段は寡黙な人でありましたが、この時ばかりは見まがうばかりの戦士と変身し、果敢に一戦に身を投じるのでした。
 果てしなき議論は2時間も3時間も続くのですが、毎度の事でした。
 集会がもたれたのは大抵毎月の第1周目の木曜日でありましたが、叔父は翌日には清明な意識で以って、診療に従事しました。
 叔父は大して能力も無いのに、副会長職兼財務部長の役職を私に何期にも渡って務めさせてくれました。
 現在改めて思うのは、私の母親と、この叔父が存在していなかったならば、私は遥か昔に、間違いなく路傍に朽ち果てていて、無様な醜態をさらしていたことであろうことは間違いありません。
 話は変わりますが、私はかつて1度だけ家出した事がありました。
あれは中学生の時だったと思います。初夏だったか晩夏だったのか、家を出たのは良かったのですが行く当てもなかったので、一晩中近くの公園で過ごしましたが、非常に寒かったことを今でも記憶しています。それに懲りまして、家出は一晩で終わりましたが、決行の夜に、当時医学生だった叔父が泊まりに来ていました。叔父の気持ちを量ると決心は鈍ったのですが、私は箪笥の引き出し(私は以前から母親がその箪笥の引き出しにお金を隠すのを見ていた)を開けて、お金を鷲摑みして、家を飛び出ました。
家出の理由は「いじめ」でした。いじめと言いましても、現在の様な悪質で陰湿、陰険ないじめには遭ったことはなかったのですが、2~3回殴られた程度でした。それが嫌で家出を決行したのです。本当にその時には、大変叔父には、そして父母にも多大な迷惑をかけたことだろうと思うと現在でも心が痛みます。叔父は恐らく一睡も出来なかったことでしょう。母親と共に大層気を揉んだことであろうと思います。
 私は暴力を恐れて家出をしたのですが、私も学生の頃、喧嘩で何度か人を殴ったことがあります。それは全て物の弾みからであった様に思います。
記憶しているのは、中学生に成りたての頃でありました。野球をしていて、打者であったか、守備に着いていたのか記憶が曖昧なのですが、一塁ベース上で揉み合いになり、私が殴られました。ついカットなり私も殴り返しました。相手は鼻血を出し倒れ込みました。そこに倒れた相手の友達が私に殴りこんで来ましたが、そこで始業を告げる鐘が鳴り響き、喧嘩は終わりました。それが記憶に残る最初の殴り合いの喧嘩でした。
2度目は何時だったか忘れましたが、恐らく中学2年生の時だったように思います。他のクラスの同学年の生徒と喧嘩になりました。原因は思い出せません。最初に手を出したのは私の方でした。出鼻をくじこうと思ったのでした。相手は戦意喪失し、私は「勝った」と思ったその瞬間でした。これまた相手の友達がやにわに出現して来まして、私はパンチを食らいました。2~3発殴られたでしょうか、いやそれ以上だったでしょうか。私は倒れました。その相手と言うのが、私が家出をする動機となった件の人物です。
以来、ブルドッグ様(失礼)の顔をしていた、その人物の顔貌を一瞥するだけで、私は恐れ戦きました。毎日その顔を見ずに済む様に色々苦心惨憺し、思案に暮れる日々が続きましたが、これといった妙案が見出せず、結局私は「家出」しようという結論に至りました。
私は暴力に屈したのです。何度か事態を打開する為に、器物を使用してでも、打って出ようかとも思いましたが、そんな不法な、卑劣な真似は出来ませんでした。否、それ以前に恐さが勝っていました。
マスコミ等賑わしている「いじめ」等による自殺の諸問題は、99%以上の確立でいじめる側に問題があるように思います。「いじめ」により、不幸にも我が子を亡くされた親御さんの心中はいかばかりか、想像に難くありません。
不幸にして、自ら命を絶たれたお子様のご両親様や関係各位が、無償の愛や、舐めるような慈しみの情愛で何年間か何十年間か育てて来られた気持ちを思いますと、本当に言葉もありません。この世から、理不尽な暴力は根絶すべきです。と孫にあやされながら幾度も痛感する今日この頃です。
今回は意図して話を脱線させてしまいましたが、今回はこの辺りで終わりたいと思います。「私と叔父の関係」は今回を以って終了するかも知れません。悪しからずご了承ください。
 あっそれと、話は全く変わりますが、中島みゆきさんの楽曲を練習していてつくづく思うのですが、彼女の歌詞、旋律は本当に素晴らしい。敢えて言わせて貰うならば彼女は「天才」である。私にも彼女の1/100の才能でも有ったならばと、最近、嫉妬と羨望に七転八倒し、自分の無能さに嘆いてる日々です。

 さて私の歌の再生回数が3月15日現在、52305に上りました。誠に以ってこれはひとえに各位のご支援の賜物のお陰であります。感謝の意を表したいと思います。
最近私は加齢の為しうる仕儀なのか、集中力と情熱の衰えもあり、また気力も徐々に萎えて来ている折、この数値は、新たな力を覚醒させ、血潮を漲らせるに、非常に大きなカンフル剤と為っており、30数年前の様な創造力を徐々に再度蘇らせつつあります。有難うございます。
また、稚拙なブログにも拘りませず朝絢詩さんのも加えますと、3月14日現在、訪問者は35485人、閲覧者は44236人に達しています。この数値は全く私の予期せぬ驚嘆の数値であり、望外の喜びであります。月並みではございますが、今後とも宜しくご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。
尚、今回は昔々に京都新聞社様に掲載して頂いた詩をご紹介させて頂いています。ご一読下されば幸甚です。