作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

歌の再生回数表その14「私と叔父(朴春浩)の関係その6」

2012-10-29 09:28:19 | Weblog


( 私の両親の結婚式の写真。叔父の2番目の姉。1947年頃。因みに新郎18歳、新婦17歳、両名とも死去)
さて叔父の性格なり人柄について余り書いてこなかったように思うが、私の知る限りでは、本当に温厚で優しい人であったように思う。だから私の兄弟も、従兄弟達も、叔父に対して親しみを感じこそすれ、悪感情を抱くものは1人もいなかったに違いない。私が叔父と言う存在を認識し始め、その記憶を脳裡に留める様になってから、2回目の留学生同盟の寄宿舎を訪ねるまでは・・・。
 叔父に連れられて、初めて桂にある学生寮を訪れた時は、その寄宿舎の住人達にちやほやされ、誉めそやされ、私も、叔父の手前のお上手(いや本心から温かく接してくれたのかも知れない)だとも知らず、欲しいままに大言壮語、放言し、放埓に振舞えた心地よさに、知らず知らずそれを期してか2度目に単身訪れた時は、叔父に本当に冷ややかに迎えられた。叔父の怒気を含んだ刺すようなとげとげしい言葉や、険しく厳しい眼差しに初めて接し、心底、心臓が凍るような恐怖感を覚えた。それまで、ただの一度もその様な叔父の言動や眼差しを見たことが無かったので、その驚きや恐怖(いや本当に恐怖なのである)は、私を著しく動転させた。一刻も早くその場から逃げ去りたかった。
 それから30分程して、叔父の眼差しはいつもの慈愛に満ちたものへと変わっていった。
その時の叔父の怒りの恐怖の眼差しは、それからもしばしば不意に私の脳裡に訪れては、私の背筋を凍らせた。以降、叔父の存命中に3度か4度激怒した様子を見たことがあるが、あの様な世にも恐ろしい、身の毛がよだつ眼差しを見たのは、あとにも先にもその時が初めてである。
 恐らく、叔父を知る大多数の人々が、俄かには信じられない事だろう。私とて、それまでは叔父のことを、神様仏様の如く思っていたのだから。
 さて、当時は医学部を卒業しても、直ぐには医師国家試験を受験できなかった。インターンと呼称される制度があり、大学を卒業しても1年間実地修練制度を受けなければならなかった。明確には断言できないのであるが、叔父は卒業後大学には残らず、また研究生活には入らず、地域の同胞医療に身を呈する積もりでいたようである。だから恐らく1年間義務付けられていた修練は、南区にある地域の診療所で、履修したようである。その時には既にウリマル(母国語)も、日常会話に支障が無い位のレベルに達していたようである。瞼を閉じると当時、我が家に宿泊して行った折にも朝早く起きては、布団の中で書物を読みながら何やらぶつぶつ呪文めいた言葉を、小さく発していたのを思い出す。後にそれが朝鮮語であることが分かった時には、本当に感服した。叔父は努力の堆積がそのまま叔父と言う姿形を取っているに過ぎないのである。即ち叔父とは努力、努力が叔父なのであると言わしめるほど叔父は努力家、努力の人なのであった。この点に関しては叔父を良く知る人は決して異議を唱えることはないであろう。
 インターン制度を履修した叔父は、大学に残ることや研究生活に入ることはせず、臨床医の道を志す事になるのである。地域医療は勿論であるが、異郷の地で、あらゆる差別や迫害を受け、貧困に喘ぎ肉体を酷使する同胞の健康維持、増進の為に、病める同胞の闘病生活に献身的に滅私共闘、尽力するために、同胞医療の道へと志すのである。
 当時、否現在もそうであるが、京都市南区東九条周辺、俗称トンクジョウと呼ばれる地域がある。在日朝鮮人・韓国人が多く暮らしていたので、地元の在日の人達が「東九条」の事を母国語で、「トンクジョウ」と呼んだのであるが、その地域の中心に、在日が病気になれば良くかかる医療機関がある。あると表現するのは、現在もその医療機関が存在するからである。その名も「医療法人京都共和会 ○ノ○診療所」
 叔父は難病に倒れるまで、この札ノ辻診療所を舞台に、同胞医療、地域医療に専念することに相成るのである。(続く)

 さて歌の再生表ですが、昨夜寝床の中でその事について、色々な思いが去来してきまして、はてさて一体私は何の為にこの様な表を作り、几帳面にも2年余りも克明に記録し続けて来たのだろうかと言うことから始まり、それが何か意味があることなのだろうかと、あれやこれや、ああでもないこうでもないと思案した挙句、結論的には、1人でも再生して下さる人士がいらっしゃる限り発表し続けて行くことにしました。
 このブログを読んで下さる諸賢や各位、また楽曲を再生して聴いてくださる皆様方に心より感謝の言葉を申し述べます。
 

私の歌の再生回数表その12(私と叔父「朴春浩}との関係その5.)

2012-10-03 11:27:40 | Weblog



 繰り返しになるが、叔父と私のことを書くにあたって、現在の私の接する事の出来る範囲内では、皆無と言っても良いぐらいに手元に資料は無く、私の脳裡におぼろげに、断片的に散乱して存在している記憶を手繰り寄せて、稿を進めている按配なので、多少の齟齬はご勘弁願いたい。
 さて叔父は、兄弟姉妹や、その連れ合いに多大な財政的援助を受けながら、学業生活を続けていたが、留学生同盟に所属しているソンベ(せんぱい)達や、4番目の姉の夫の少なからぬ影響を受けながら、自らの思想をも180度変革しつつあった。
 そして1963年か4年の頃であったろうか、大阪府の東淀川区アパートを引き払い、京都の桂に在った朝鮮留学生同盟の寄宿舎に移り住んだ。
 留学生同盟の寄宿舎は叔父が移り住んだときはまだ真新しく、恐らく3階建ての軽量鉄骨で建てられていたように思う。ただ、以前からそこに在った寮を取り壊して、新しく建築したのか、それとも全く新しく土地から購入して建設したものか、私には分からない。
私が高2の時か高3の時に、2度ほど寄宿舎の建物内に出入りした事があるが、1階は玄関と食堂と卓球室があり、また管理人室や何部屋かの寄宿部屋があったように思う。そして2階は全て寄宿部屋で、3階は寄宿部屋と広い講義室が在ったように思う。いや、ひょっとすれば記憶違いで、2階建てだったかもしれない。もう44、5年前の記憶であるので、間違っていればご容赦願いたい。
私が現在住んでいる京都府城陽市から、留学生同盟の寄宿舎のある京都市内の桂区までは、車で行けば小1時間位で確認出来るであろうに、生来の怠惰な性格が、その労を厭うているのである。
部屋に入ると直ぐに左右に2段ベッドが1つずつあり、4人が入居できるようになっていたように思う。ベッドの奥には、左右に机が2つずつ据え付けられており、勉学に専心できるようになっていた。
私の2度泊まった経験から、朝の起床は6時で、その時間少し前に朝鮮の音楽が流れ、弥が上にも起きざるを得なかった。少なくとも私はどんなに眠たくとも目が覚めた。しかし何ヶ月もその部屋で生活をしているソンベ(せんぱい)の中には、その音楽が鳴り響いても、熟睡している人もいた。そして全員で屋上に行き、ラジオ体操をやるのである。ラジオ体操は日本式のラジオ体操ではなく、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)式の人民体操であったように思う。その後朝食となる。いや朝食の前に30分程くらい、一所に全員が集まって何かの書物を読んで学習していた様にも思うが、それとも朝食の後だったかも、いやそれともそのような学習自体はなかったかもしれない。兎に角大昔の記憶なので、正確なことを書くことが出来なくて申し訳なく思うが、ご容赦願いたい。
叔父は恐らくその時6年生で、寮長を任じられていたように思う。
 桂のこの寄宿舎は、原則的には京都や滋賀に在る大学に通う学生達しか入寮出来なかったように思う。女子学生は入寮出来なかった。
 私は後に、叔父が経営する医療機関に就職して、長い年月を過ごすことになるのだが、たったこの2日間の寄宿舎の体験が、大いに役立つことになる。
 ここで何かの時にふと思い出す忘れられない思い出がある。それはその寮のピョンソ(トイレ)で小用を足していた時、ほかほかの覚えたばかりの歌を唄いながら用を足していたのであるが、同じく用を足していた寮生にやんわりたしなめられた。「トンム(ともだちよ)!その歌は、こう言う場所で唄う歌じゃない。唄うのは止めなさい」と。
 初めて覚えた朝鮮語の歌で、メロディーも親しみやすくあったので、のべつ幕なし唄っていたその歌は「金日成将軍の歌」であった。例えてみれば、日本の国家である「君が代」
をTPOわきまえず唄っていたようなものである。勿論、北朝鮮の国歌は「愛(エ)国歌(グッカ)」と言ってちゃんと存在していたのであるが、記念日や、大会や集会の開催前後には、必ずと言って良いほどにこの歌を、参加者一同が起立して斉唱した。以来私も、公式の大会の場以外では、人の居る所では、決して口にする事は無かった。(続く)

 さていつもの話題で申し訳ありません。You tube様の私の楽曲の再生回数は、10月2日現在28509回に上りました。心から御礼と感謝の言葉を申し述べます。丸2年(1部は1年)に亘りましてご声援を続けて下さっている各位もおられることと思いますが、本当に有難うございます。今後ともご支援の程、宜しくお願い申し上げます。