作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

私と叔父の関係その8「良いお年をお迎え下さい」「歌の再生回数表その17」

2012-12-23 10:14:01 | Weblog


 私が、叔父が所長を務める診療所に勤務するようになったのは大学3年生の時であると前回書き記したが、初めて診療所で勤務するようになったのは何時の時期であったか定かに思い出せない。春であったか、夏であったか・・・。
 私が入所した時には、アルバイトの方々も居て、ちっぽけな外見から想像するよりは、かなりの職員が存在していた様に思う。ドクターからして所長も含めて3名居たように思う。所長を除いた2人の先生方は、何れも京都大学出身の先生方で、日本の方だった。その中のお1人の先生は、後に京都大学の医学部の教授に成られたと聞いている。もうお1人の先生は、当直と往診を受け持っておられた。この先生も非常に高名な先生で、と言いましても医師としてでは無く、ある組織で非常に重要なポストを占めておられて、相対立する組織や、他の公的な組織からも常にその動向を監視されているらしかった。
そのドクターは、その組織や、筋の人達には「鬼の○◇△」と呼ばれ、非常に恐れられていた。これらの話は、その当時診療所に務めていた従兄から間接的に聞いた話ではあるが、信憑性はある。
 しかし、共に寝起きし、往診にも運転手兼看護補助員として、その言動をつぶさに観てきたが、非常に紳士的で真面目で謙虚なお人柄のドクターであった。
 私達(と言っても私はただ、往診鞄等を持って付いて回るだけだったが)が往診で回る患家は、大抵が金銭的に恵まれず生活保護を受けていて、家屋も粗末で、家の中も冷暖房器具、真夏でも扇風機すらもなかったが、その先生は一言の愚痴もこぼさず優しく患者さんに接するのであった。
 こんな事も有った。往診に行った時である。何時もはすっと入る注射針が中々入らず、それこそ10分は掛かっただろうか、真夏であったので汗水は当然であるが、鼻水をも垂らしながら、またそれを拭おうとせず、ひたすら細く、脆く、硬化した静脈を捜し求め、奮闘する姿を拝見したときは、ドクターも患者様も気の毒であったが、本当に感動した。患者様が注射を必要としている以上、患者様が諦めない限り、自分の方からは絶対降参しないぞと言うばかりに、周囲の状況を顧みることなく、ただその事のみに腐心する姿勢、意志。これがかの「鬼の○◇△」の実態だったのである。
 でも私との関係は1年位であったろうか。ある時そのドクターがお辞めになると聞き私は「折角良くして頂きましたのに」と述べると、「特別な事情があって此処をさりますが、きっと必ず帰ってきますので」と意味ありげな言葉が返ってきましたが、その後の消息は不明で、私が退職するまでは、二度と再び診療所に帰って来ることは無かった。
 その先生辞められてからしばらくして、マスコミ等が、☆☆派が△△派を襲撃す。角材などで滅多打ちにし、何名かが死傷した模様等のニュースが流れてきたが、ご無事を祈るばかりであった。
 さて話はまた少し横にそれてしまったが、準看護師が1人、看護師見習いが1人、事務員が私を除いて6名居たが、1人が退職を予告していたので、その代わりに私が叔父に誘われて入所した次第である。(続く)

 さて早いもので2012年も残り10日をきりました。少し早いですけれどこの1年、誤字や脱字や、また乱雑極まりない文脈のブログをお読みいただき、心より御礼申し上げます。
 各位におかれましてもこの1年、特に年末には衆議院選挙もあって、多様な感慨をお持ちの事とご拝察申し上げますが、常に明日を信じて希望を失わず、2013年度も本年同様、御活躍されるものと祈願いたしています。ご家族様のご多幸をも祈念いたしています。
 さて本年度最後のご報告をさせて頂きます。
 私の歌の再生回数は12月23日現在30595回。ブログは朝絢詩君のと合わせまして総訪問者24288名、総閲覧者数30646名となっています。謹んでご報告申し上げます。
 2013年度も宜しくご支援ご配慮、ご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

( 娘が小学校の時に描いた私の似顔絵です)




私と叔父の関係その7.歌の再生表その16.NHKアナウンサー森本健成さまの事その他。

2012-12-09 10:21:52 | Weblog

 私がつくづく残念に思うのは、医療法人京都共和会の資料のかけらさえ持ち合わせていない事である。退職して早や2年近くになるが、記憶は徐々に薄れつつある。色褪せてゆく記憶を必死に呼び起こして、この稿を進めているのであるが、かなり不正確であることを否めない。読者各位に申し訳なく思うがご容赦下さい。
さて、医療法人京都共和会の歴史はかなり古い。1950年代初頭には既に、本格的に医療活動を推進していたと想像される。
医療法人京都共和会を発足させたのは在日朝鮮人である。理事、及び社員の構成員が記載された定款を何度か見たことがあるが、全て在日朝鮮人と思しき名が記され、押印されていた。その中にはつい最近まで生存していた在日1世や、初代在日朝鮮人連合会の京都府の委員長も名を連ねていた。その何れの先生方も殆んど他界され、設立に到った経緯や目的等現在は尋ねる術もない。だが、私の推測だが、当時の在日朝鮮人の為の医療機関、すなわち在日1生や2世達の病気の治療や健康保持、公衆衛生知識の啓発や普及、啓蒙活動。在日子弟の検診や保健衛生活動等の目的を第一義的に据えて設立された医療機関であることは疑う余地はない。
その後医療法人の構成メンバー、すなわち理事や社員が2、3度変更になったようだが、その法人が経営する診療所の所長として、叔父朴春浩が勤務するようになったのは1952年か53年頃だったと想像される。
叔父が所長として勤務していた頃には既に1度目の改築がなされていて、病室等は無かったが、設立当初は病室や手術室まであり、実際に当時のその診療所の設備で出来そうな手術は施行したらしい。勿論私は、その様な事などまったく知らなかったのであるが、設立当初から来診されていた何人かの患者さんから伺った話しである。
その様な趣旨で設立された診療所であるゆえ、京都や大阪で医学を学んでいた在日の医師やコメディカルが参集して来た。また在日の医療関係者ばかりではなく、日本の多数の医療関係者も参集してくれたようである。
私が診療所のスタッフの一員として参加するようになったのは、私が4流大学の3年生の時である。
私は将来に何の展望や野心をも抱かず、また、学問に専念するわけでもなく、当時としては最高級車のスポーツカーで通学し、パチンコや麻雀、遊蕩三昧に呆け、日々をいたずらに空費していた。そんな不出来で愚昧な私を、叔父は痛く案じてくれたのであろう。私に診療所で「アルバイト」をしてみないかと「声」を掛けてくれた。
当時は、医療歩人京都共和会が運営する「札ノ辻診療所」は経営主体がすっかり様変わりしていて、京都の壬生で小さな医院を経営していた在日1世医師を中心として、医院を運営する一部のスタッフや、その親族で構成されていた。そして後に、その院長は西院でかなり大きな病院を建設し、その院長の座にも納まっていた。
そのK院長は、当時在日総連合会に所属していたので、叔父もまた卒業するやいなや、実質的にそのK院長が実質所有する札ノ辻診療所の所長として勤務することに相成った。(続く)

 以下は6日に発表された朝(あさ) 絢(けん)詩(じ)さんのブログからの転用です。重複しますが是非一読して頂けたらと思い記載させて頂きました。
私がノンレム睡眠障害と精神科で診断され、既にアルコール中毒者にも成っているので、只今現在からアルコール飲料はきっぱり断つようにと、精神科の医師から言われたので、その宣告の日から、その時まで一滴も口にしていなかったのです(このブログを認めている12月6日現在も、アルコール類は嗜んでいません)
 普段でも寡黙で知られている私ですが、アルコールが体内に入っていると少しは言葉数も増え、駄洒落の1つやふたつを発するように成り、さらにその量が増えて来ると、昂然と人前で歌が唄える様になります。だから医師からその様に命じられた時には内心「ああもうこれで、カラオケ屋さんで唄えないな」と意気消沈したものです。ところがですよ、歌の虫がむずむずして来て、辛抱できずにカラオケ屋さんに行き、マイクを握ると、最初の2,3曲こそぼそぼそと控えめに唄っていたのですが、その後は酔っている時と同じ様に大声で歌うことが出来たのですね。アルコール抜きで唄うことに自信を持った私は、それからは以前の様に週1回か2週間に1回カラオケ屋さんに行き(それもここ半年位のことですが、それ以前は1年に3.4回も行けば良いとこでした)、騒音公害を撒き散らしています。あっ話が大きく横にそれたようです・・・。でもあと少し言わせて下さい。私はアルコールを摂取していても、上限は必ず守っていました。月に1,2度はそれを破ることがあったかもしれませんが。
また私のアルコールマナーは非常に方正で、カラオケを唄っている時は別にしまして、大声で喚いたり、人に絡んだり、怒鳴ったり暴れたり泣いたりしたことは、ただの1度もありません。
 ただ、64年間生きながらえて来て、1度だけ前後不覚になったことがあります。それは正月のことでした。家内のお姉さんと差し向かいで炬燵で清酒を飲んでいると、あるときぷつんと記憶が途切れたのです。それから何時間ぐらい経たのでしょか、気が付いたときには同じ炬燵の中で身体を横たえていたのです。即様私は家内に尋ねました。
「私は呑んでいるうちにふと記憶が途絶え、気が付いた時には炬燵で横になっていたようだが、その間何か不謹慎な言動をしなかっただろうか、迷惑をかけなかっただろうか」
家内は言った。
「べつに何にも無かったわよ。しかし飲みすぎやわ。2人で一升瓶2本空けたんだから」
 私はそれまで女性に対して痴漢や、それに類似した行為をしておいて「酔っ払っていたのでよく覚えていません」との言い訳を「とぼけているとか」「嘘をついている」と信じなかったのだが、それ以来そう言うこともありえるのだと思うようになった。
話は、本筋から大きく逸れたが、先達てNHKのアナウンサー森本健成氏が女性に対して「猥褻行為」を働いたとして逮捕されたが、反面「本当に無意識のうちに為した行為」かもと信じるようになった。
 私は別段、彼の知人でも親戚でもファンでもないが、捜査当局関係者の皆様方には、先入観や偏見を持たない慎重な捜査をして頂ければと切に願っている。勿論氏の過度の飲酒は厳に戒めるべきである。また、被害者の女性に対しては真心からの誠意を持って、謝罪すべきである事は言うまでもない。

私の「歌の再生表」ですが、お陰さまで3万回を超えました。これも各位の温かいご支援、ご声援の賜物であることは言うまでもありません。
心から感謝の言葉を申し述べたいと思います。

 さて世の中には様々な理由で、離散を余儀なくされている人達が、家族が、この地球上に沢山います。東日本大震災や、それに伴う津波や原発被災者の皆様方を始めとしまして、国境紛争や貧困、旱魃、豪雨等親子や兄弟姉妹、肉親等、悲惨な状況下に置かれている人達が。その様な人様の僅かばかりの慰みにでもなれば、一助にでもなればと思い私は、「のばらお前たち」と題する楽曲を、世の中に旅立たせようかとも考慮しています。この楽曲は、私の3人の子供達が何処にいようとも、はぐればなれになろうとも、どの様な境遇にあろうとも、決して負けることなく、強く、心清く、美しい魂を持ち続けて、生きていって欲しいと、育って欲しいと、幸せになって欲しいと願って作詞作曲した歌です。現在その3人の子供達は、皆さまや、社会や、国家の温かいお心遣いや、ご配慮のお陰で、それぞれの道を、希望を持って日々歩んでいます。
 どうぞ唄って下さいこの歌を。万国のあなた達に差し上げます。編曲もご自由にどうぞ。
歌詞も、あなた達のお国の言葉に翻訳して、唄ってもらって結構です。譜面も掲載しています。でも、楽典の素養が無い私が記載したものですから、間違っている可能性もあるかも知れません。旋律が分からない場合はYouTubeで聴いてみて下さい。下手な歌唱ですが参考にはなると思います。
さあ我が子「野ばらお前たちよ」飛び立って行け!この地球の果ての果てまで・・・。