作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

私と叔(小)父との永遠の別れ。

2012-06-04 17:20:43 | Weblog
 私が2010年末まで勤務していた医療機関の前所長であり、前理事長の訃報に接したのは、この5月20日の昼過ぎであった。
 丁度私はその時、大阪で1人暮らしをしている次男と家内と3人で、西成区にある、どちらかといえばあまり清潔そうには見えない、産業道路に面した小さな中華料理店での食事を終えて、店を出た直後に携帯が鳴り、前所長の長男から訃報を聞いた。
 「アボジ(おとうさん)が亡くなりました」と、最初に耳に入って来た言葉に非常に驚いたが、聞くうちに、だんだん平静さを取り戻し、携帯を切った。
 すぐさま私は次男と家内に前所長の亡くなったことを伝え、家内と2人で京都東山区の所長宅にハンドルを切った。
 1時間後、前所長の自宅に着いた私は、家内に続いて前所長の亡骸が安置されてある、玄関横の居間兼書斎室に入った。亡骸に掛けられていた布団や、顔を覆っていた白い布は当然のことながら微動だにもず、私は遺体の前に正座して、顔を覆っていた布を3/2程右手でめくってみて、死に顔を凝視した。そこには生前の闘病生活にやつれにやつれた、見慣れた痛ましい蒼白の顔があった。目は閉じられていたが、口はやや開いていた。そういう状態で暫く死に顔と相対していると、従妹がやってきて顔を覆っていた白い布をすべて取り払った。
 私は従妹に尋ねた。「どこで亡くなった」
「家にいたが急に状態が悪くなったので、救急車で病院に搬送しそこで死亡が確認された」
 前所長宅には既に、叔母の妹さん2人が大阪から駆けつけていたようだ。
「式の日取りは決まったの」と私は従妹に尋ねた。
「まだ見たい」
 そんなやり取りをしたあと、叔母の妹さん達に挨拶をし、前所長宅を辞し帰路に着いた。

 その夕刻、亡き所長の長男から連絡があり、通夜が5月22日19時から、告別式は23日14時30分から15時30分に決まりましたと連絡があり、「兄さんも知り合いの親類に連絡できるところがるようでしたら、連絡よろしくお願いします」との依頼があり、私の知りうる範囲内で連絡を取った。
 私は思った。普通なら21日が通夜で、22日を告別式にする場合が多いのだが、喪主である長男が診療所を休診することが出来なくて、通夜と告別式が一日ずつずれ込んだのであろうと。この日取りなら、元から水曜日の昼からは休診であったし、火曜日の告別式は19時からなので、元来夜診は19時迄だったので、多少早く終えることは患者様にもご迷惑をかけることが少なくてもすむし・・・。と私は勝手な推測をした。
 そして通夜当日・・・。
 私は葬祭場に、予定の開始時刻より1時間半ばかり早く行ったのだか、葬祭場の中に入り2階へ、3階へと歩を進めるにつれて、思わず目を見張らずにはいられなかった。
 とにかく凄い数の供花なのである。後で葬祭場の係員に尋ねたのであるが、その数150基は下らないであろうと。とにかく花、花、花だらけなのである。
 前所長、朴春浩叔父は無神論者であった。無宗教者であった。そしてついでに書き加えるならば、社会主義、共産主義信奉者であった。恐らく死の間際までそうであったと私は信じる。そして絶世の愛国者であり、民族主義者でもあった。ついつい話が横にそれてしまったが、遺影も棺も花に埋もれていた。
 通夜は予定通り午後19時から始まった。私は身内や親族の者が座る席の祭壇に向かって一番後列の奥に座っていたのだが、先ずは順次身内から献花をしていくことになり、次に一般参列者が献花することになっていたのだが、その参列者が途絶えないのである。次から次へと押し寄せる波の如く、永遠にこの儀式が続くのかと錯覚したぐらいである。これも後から葬祭場の係員から聞いた話であるが、通夜の参列者は優に300人は超えていたであろうと言うことであった。誠に生前の仁(人)徳を偲ばせるに十分な参列者の数である。
 結局その夜、私と家内、それに長男が家路に着いたのは午前2時くらいであった。ご存知の方もおられるが、朝鮮人、韓国人の通夜は大抵遺家族側が、弔問に訪れてくれた人に 料理と酒を出してもてなす。先述したように恐らく遺家族側の想像をかなり超えた弔問客であったので、酒類が足らなくなり、真夜中に遺家族が、深夜の町に酒類を求めて走り回ったようである。

 告別式は予定通りの時刻に始まった。
 告別式に訪れた参列者も、前夜ほどではなかったが引きもきらなかった。哀調を帯びたクラッシックが流れる中、押し黙ったまま御霊前に献花し黙祷して、あるいは合掌して永遠の別れを告げる。
そして出棺の時である。涙のうちにクラクションが長く尾を引くように響き渡り、アボジ!所長!朴先生!パックチュノソンセンニン(ぼくしゅんこうせんせい)!・・・と嗚咽交じりの故人を呼ぶ声を、つぶやく声を、叫ぶ声を後に、黒塗りの霊柩車は火葬場へと消えていった。
 私は前夜、告別式の献花の際に、皆が押し黙って黙祷や合掌している中で、一際大きな声を出して、こう別れを告げたのである。
 「所長、大変お世話になりました。コマッスミダ(ありがとうございました)」と。
告別式の日はそっと同じ言葉を胸の中で繰り返していた。

 次回のブログからは、私と叔父(小父)との関係を、私の力量で書きうる範囲内で、書き続けていこうと思います。定期的な範囲内で、連続して書ければ良いんですが、私も人生の色々なしがらみの中で悪戦苦闘しながら生きているので、書きうるかどうか自身はありませんが、頑張ってみたいと思います。

 さて私の楽曲(5曲11種類)の再生回数ですが、6月3日現在23、839回に達しました。各位とYou Tube様には心より御礼と感謝の言葉を申し上げます。詳細は朝(あさ)絢(けん)詩(じ)さんの「歌の再生回数表」をご覧におなり下さい。またブログ読者は朝絢詩様と併せまして閲覧者様が24,114名、訪問者様が19,152名に達しております。心より感謝とお礼を申し上げます。
引き続き御支援とご愛顧、ご鞭撻とご指導の程お願い申し上げます。