作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係その23」「歌の再生回数表第38回」その他。

2013-10-13 16:44:15 | Weblog
 
 さて現在京都府内には朝鮮学校が3校あるが、私が診療所に職員として携わる様になった1970年代頃には、5校存在していた。朝鮮学校が設立されていた地域名を述べれば、舞鶴市、京都市の北区、左京区、右京区、南区に点在していた。そして、幼稚園から、高級学校(高等学校)に到るまで存在していた。
 当時京都にどれだけの児童が通っていたのかは不明であるが、現在と比較するならば、桁違いの児童が通っていたものと思われる。
 私も勉強不足で、3人の子供を朝鮮学校に通わせていたにも拘らず、その設立の経緯に至るまでの歴史や、その後の行程など、ほとんど知識を持ち合わせていず、実に汗顔の至りである。ただ1945年8月15日以降の日本の敗戦とほぼ同時に、各地に自発的に「国語講習所」なるものが設立されたのが、その始まりと言われている。
 朝鮮学校の沿革を記述するのがこのブログの目的ではないので省略するが、それらの児童の保健部門に関して我が叔父朴(パク)春(チュ)浩(ノ)は、非常に大きな業績を、足跡を残して来た。
 私が診療所で勤務するようになっての当初は、どのような仕組みになっているのか皆目わからなかった。とに角札ノ辻診療所自体が、右京区の阪急電車S駅の近辺にある、S病院の傘下にあったので、その枷の束縛から独立しようと動きだしたところなので、私もその為の準備にやがて奔走することになるので詳細は分からないが、当時在日本朝鮮人総連合会(以下総連と記す)には、様々な傘下団体設置されていて、その中に在日本朝鮮人科学技術協会(以下科協{1959年設立}と記す)と言う名称の傘下団体が存在した。文字通り各大学を、大学院を卒業した人士を結集した団体である。理工科系は勿論、医学部、社会系各学部を卒業或いは研究生で構成されていた様に思う。
 日本の法律によれば、いわゆる児童は毎年定期健診や各種検査?予防接種を受けなければならないと定められているはずです。朝鮮学校は各種学校として認可されていますが、1条校として認可されようと、教育内容からして日本の小学校や、中・高等学校と同等の教育内容となっていますが、1条校として認可されません。あれあれ、話がまた大きく脇道にそれそうなので修正します。(修正主義!のレッテルを貼らないで下さいよ)
 各朝鮮学校児童の検診は、当時「科協」に属するドクターが、各学校の要請、依頼を受けて実施していたように思います。私が診療所に勤務する以前は分からないですが、以降は札ノ辻診療所の所長(叔父)や、叔父の後輩が実施していた様に思います。でも、それでもドクターの都合がつかない場合には、特に良心的且つ人道主義的慈愛に満ちた日本の医師にお願いしていたようです。
 特に叔父は殆んどの学校の検診をしていたようです。私も運転手兼助手として1年に1度は、舞鶴初中級学校まで毎年のように出向いて行きました。また話は脱線しますが、叔父は本当に寡黙な人でした。私もどちらかといいますと無口(嘘をつけ!と、どこからか罵声が聞こえて来そうですが)な方で、舞鶴までの車中の2人には、殆んど会話らしい会話も交わさず目的地に向かい、そして内心等検診をすませると、また黙々と帰って来るのでした。ただ叔父はその途次、必ず喫茶店へ寄ろうと言います。喫茶店でも同様で別に会話をする訳ではなくて、黙々と新聞を読んだりするだけでした。余談ですが、私が結婚して暫くしてから叔父に、愚痴めいた事をこぼした事があります「家に帰っても結構気を使うわ。何を話したら良いのか・・・」叔父は答えました。
 「家庭なんて気を休めるところや。何を遠慮することがある。わしなんか話したくなかったら2日でも3日でも話さない」
 その返答を聞きまして本当にびっくりしました。私なんか夫婦だと言いましても、1時間も押し黙った状態が続くと、神経が圧迫されそうになりますが。その点子供が居ると助かります。でも、そう言う叔父も、先程の言葉からすれば、家庭では大層な唐変木で、頑固者、偏屈者の様な気がしますが、以外や以外、叔母の膝枕で、手の指の爪を切ってもらって、非常ににやけた顔で、何かぼそぼそ語り合いながら、大変中睦まじくしている光景を何度も私は目撃したことがありますので、夫婦仲は至って良好だった様に思いますし、考えて見れば愛情交換、表現に言葉などあまり必要ないですよね(勿論会話は、非常に有効な夫婦円満の秘訣であることは論をまちません)。すみません、話が筋道からそれましたが、本題に戻します。あっそうそう、丁度その頃、福知山から準看護師になる為に、診療所に正社員として雇用していた16才くらいの娘さんが所長の住居に下宿していたんですが、その娘がそっと私に耳打ちしてくれたんですが、「2人で入浴しとるよ」うふふと、それを聞いた私は大変驚きましたが、よくよく考えれば、夫婦であるので何も不自然なことではないので、「あっそうか」と軽く聞き流した風を装ったんですが、内心はあの謹直な叔父がと・・・大変驚いたものです。そして何かしら人間味を感じて,内心ほくそ笑んだ事を思い出します。その娘さんは半年くらい診療所に居たでしょうか、少し事情があって辞職しました。あっ!また話しを逸らしてしまった。(叔母さん、従弟妹達ごめんなさい。怒らないでね。)
 1977年8月に科協から枝分かれするように、在日本朝鮮人医学協会なる名称の組織が結成され、医師をはじめ広範な医療関係者が結集されるようになりました。東西に本部が、地方に支部が設置され、在日同胞や朝鮮学校生の健康増進と保健衛生知識の啓蒙活動に従事することとなりました。
 京都でも支部が結成され、初代会長は朴春浩、即ち我が叔父でした。ちなみに初代西日本会長は、京都の右京区で開業されている李○○先生でした。
 当然叔父の思想に共鳴していた私も会員となり、初代会計部長となりました。
 初めての京都支部総会は、ささやかなものでした。
 以降ひと月に1度会合を持つようになるんですが、その頃から徐々に総連離れが始まっていたように思います。
 診療所で日常の勤務をしているとき、所長が突然こう言いました(続く)

 さて少しは話は変わりますが、各位は朝鮮学校と聞けばどのような感想なりイメージををお持ちになられておられるでしょうか。「恐い学校」「共産主義教育をしている学校」等余りポジティブなイメージを持っていらっしゃらない方がかなりおられることと思います。
 確かに1960年代から90年代頃の教育内容の1部は、「卒業したら祖国の復興建設事業に寄与しよう」「我々は指導者の忠実な戦士でいよう」的な内容の教育だったように思います。「思うと」曖昧な返答しか出来ないのは、私自身朝鮮学校に籍を置いたことが無いからです。ただ、3人の子供達全てを朝鮮学校にで学ばせましたし、末っ子を除く2人の子は、最高学府まで行かせたその経験から言いますと、基本的には徐々に日本で住むことを前提にした教育に流れが変わっていったように思います。カリキュラムも日本の教育内容とほぼ同様だったと思います。ただほぼと述べましたのは、日本語のほかに、母国語であるハングルの学習時間を週に何時間か割いていたからです。
 90年代頃には、盛んに日本や韓国との善隣友好の精神を涵養するための教育内容にシフトして言った様に思います。(これは自身を持って言えますが、反日教育などは断じてなか
ったと)
 また、幾ら厳重に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)擁護や、支持の教育をしたからって、1歩校門の外に出れば、周囲が全て日本の文化圏である訳なので、よほど強靭な意志の持ち主で無い限り、その影響から逃れることは不可能だと思っています。私の見解ですが、近い将来かなりの割合で風化していくだろうと思っています(今現在も加速度的に風化していっています)勿論賛否両論ありますが、私はそう思います。
 在日の潮流がそう言う流れの中にある様に、朝鮮学校もまたその影響と言いますか、感化を無視することは出来ません。
実際橋本大阪市長等は朝鮮学校を訪れて視察して行かれた訳ですが、にもかかわらず市長や、松井大阪府知事や、日本政府は、長年実施して来た財政的支援を停止したり、高校の授業料無償化の問題で、朝鮮学校だけを除外したりしています。出来ればもっと大きな度量で持って将来の展望を描けないものでしょうかね。さらに民心が離れて行く様な気がします。
 昨日7日、京都地方裁判所で在特会(在日特権を許さない市民の会)に断罪を下しましたが、私も彼らのヘイトスピーチ、罵声や暴言を聞きましたが、本当に良心が少しでもある人は耳を覆いたくなる筈ですよ。それを拡声器等を使って、授業中の幼稚園生、小学生が居る間近で、立て続けに、1時間か2時間近くがなり、喚き続けるんですよ。幼い純真な心はどれほどに恐怖の血の涙を流したことでしょう。
 以前にも私のこのブログで書いたか、朝(あさ)絢(けん)詩(じ)さんのブログで書いたかは忘れましたが、民主主義大国日本、何か主張したいことがあれば、TPOわきまえながら、会話で物事を解決すべきですよ。判決内容は各位新聞等でご覧になってください。
あっ!すみません。また逸脱してしまつた見たいです。今回はこれで終わりにします。お元気で。

さて、私の「歌の再生回数表」のご報告をさせて頂きます。各位の温かいご支援のお陰をもちまして、10月12日現在44304回の再生回数に上っています。先ずは各位に心からの感謝の言葉を申し述べます。正直申し上げまして、漸減傾向にありますが、貼り付けさせて頂いた年月を数えますと、いたし方ありません。今後も1回でも再生がありますと、ご報告させて頂きたいと思っています。宜しくお願い申し上げます。
また、「野ばらおまえたち」の英語バージョンを近いうちに、発表させて頂きたく思っています。訳詩は現在スエーデン在住の姪にお願いしました。言葉を音符に振り分けるのに、少々悪戦苦闘していますが、それと発音の悪さに難儀していますが、頑張ってみようと思います。