作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係その20」「歌の再生回数表その30」その他。

2013-06-23 11:22:56 | Weblog

 前回の続きであるが、叔父と私が診療所の2階にあった4畳半位の食堂で昼食を取っていた時である、もう20年以上も前になるであろうか、何かの話をしていた時にである、叔父が○○○のオモニが何々でと言ったので、私は思わず「えっ」と聞き直したのである。叔父は再び○○○のオモニがと言ったので、私は又も「えっ」と聞き直したのである。叔父は突然箸をテーブルに叩きつけ、大きな声で再び「○○○のオモニと言っ取るのが分からんのか」と烈火の如く怒って言ったのである。恐らく叔父の目は強烈な怒りで血走っていた事であろう。私は稀にしか見たことが無いと言うか、叔父の凄まじい激怒に、「あっ、分かったわ」と答えたのであるが、実は全く理解していなかったのである。
 韓国・朝鮮では昔から自分の妻を会話等で相手に伝える時に、自分の子供の名前の後に「オモニ」と付け加えて表現する慣習があったのである。例えば私の長男の名は在淳(チェスン)と言うが、私が相手等に、私の妻の事を伝えたい時は「チェスンのオモニ」と表現するのである。当然ながら聞き手が私の子供の名前を知っていることが大前提になるが。だが、私の家族構成を知らない人には、当然ながら「私の妻とか家内等」と表現することになる。
 叔父は私が当然その事を私が知っている物と思い、「こいつわしの事を馬鹿にしている」と思いこみ、激しい怒りを表したのである。
 無知な私は「可笑しいな。○○○は独身なはずやのに、なんで○○○のオモニと言うんやろう。いつ結婚したんやろう」と、怒鳴られても暫くは理解出来なかったが、暫くして、自分の配偶者をその様に呼称すると言う事を学んだのである。本当に私は「とんちんかん」であった。
 またこう言う事もあった。診療所では夏、冬の2回、職員の慰労会があった。何時だったか忘れたが、ある夏の慰労会の時である。今回は川床の風情と言いますか情緒を満喫するために、ある加茂川沿いに面したお店の川床で開くことになったのである。三々五々職員達はそのお店に集まってきたが、私が行ったときには既に他の職員達はおもいおもいの場所に陣取っていて、末席近くしか残っていなかった。
 最後に来たのは叔父(所長)である。残っていたのは最末席だけであった。当然上席に座していた副所長達がその席を譲るものだと思っていた私は、ただ見守っていただけなのであるが、上席に居座っていた誰一人として、席を譲るものが居なかった。
 さて宴と言いますか、慰労会が終わり、2次会も終えたその後である。帰路を急ぐ所長の様子が明らかにおかしい。顔には怒りの表情が浮かんでいるのが手に取るように分かる。
 異変に気付いた私や、従兄弟や、看護主任がどうしたのかと訝っていると、所長が怒りを隠しもせずこう言った。
 「お前らわしをなんやと思ってるんや。所長であるわたくしに末席に座らせるなんて何を考えているんや」と。
 語気は頗る荒かった。取分けきつく罵倒されたのが従兄弟であった。私よりは10才位若くレントゲン技師をしていた。彼は副所長と共に上座に席を連ねていたのであった。怒りの矛先が殆んど彼に集中していた。彼はひたすらその非礼を詫びたが、所長の怒りはなかなか収まらなかった。
 私にも所長は「お前も末席に座らされて、何で文句の1つも言わなかったんや」と窘められた。世間知らずであった私は、上座下座の事等全く気にも留めていなかったので、爾来会合や集会、飲み会等があると、その事に最新の注意を払った。
 叔父も以降は、診療所の面々が無知な集団の郎党と知り、何かのイベントや集まりがあると、常に先に来ていて、然るべき場所に座しているか、佇んでいた。
 所長は非常に寡黙な人物であった。人柄は温厚で有ったが、滅多に喜怒哀楽を表情に出さなかった。だから私が、35歳を少し超えた位から始めた新聞の投稿に、私の投稿が掲載されても殆んど何も言わなかったし、表情にも出さなかったが、大韓航空機爆破事件(1987年11月29日)に強い衝撃を受けて書いた投稿文が朝日新聞の投稿欄に掲載された時は違った。

 朝日新聞の朝刊に掲載された1988年2月16日の朝(現在では掲載される予定日を前もって連絡して下さるが、以前は投稿のお礼のお葉書だけは頂いたが、いつ掲載されるか、いや掲載されるかどうかも分からなかった)の朝、事務室の引き戸をがらりと開けた所長は、満面に笑みを湛えて、「読んだぞ」とぼそっと一言発したのである。そして診察が始まると、患者さんや知人や友人達に告げているのである。
「今朝の朝日新聞読みましたか」
 私は以前1~2年購読していた事がある京都新聞社様と合わせて、現在に到るまで34~5回程、投稿を掲載され紹介して頂いたが、叔父のこの時の喜び方は、私の記憶している限り後にも先にもこの時1度きりである。
 この投稿は我が同胞に非常に大きな影響を受けたようで、会う人々ごとに祝福と賞賛を受けた。ある同人雑誌にまで転載された。
 自画自賛気味になって申し訳ありませんが、とに角叔父が大層喜んでくれたのが何より嬉しかった。
 さらにもう一言付け加えさせて頂くならば、現在まで1番嬉しかった言葉は、ある時何かの議論の折に言った叔父の次ぎの様な言葉である。
「お前みたいな賢い奴が・・・」
 敬愛して止まぬ叔父。エリート中のエリートの叔父。その口から吐かれたこの言葉は、それからは私の心の中で至上の宝玉となり、最上の指針となった(続く)

 さて歌の再生回数が6月22日現在39003回に達しました。顕市趙の1096回を加えますと40099回となります。これも各位のご支援の賜物と思っています。心から感謝の意を表します。
 就きましては、各位のさらなるご支援をお願い申し上げます。本当に有難うございました。
 

「私と叔父の関係その19」「歌の再生回数表その29」その他「4万回の再生回数目指して頑張るぞ!」

2013-06-09 16:47:38 | Weblog
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 さて今回も叔父の人間像を、各位の脳裡に描いて頂く為の逸話を綴らせて頂きたいと思います。
 あれは確か私が未だ独身時代の事だったと思います。何の集まりだったか、誰と一緒だったのか今になりましては、幾ら私の記憶を遡ってみても思い出せませんが、叔父が居た事は確かです。場所は四条河原町界隈、祇園か木屋町か忘れましたが、誰かの知り合いのスナックだった様に思います。
午後11時前後位だったでしょうか、叔父が「私は先に帰るから、未だ飲みたかったら、ゆっくり飲んできたら」と私に告げると、叔父は席を立ち我家へと帰って行きました。私は何故かその時に限ってもう少し飲みたい気分だったので、「じゃ後から帰るわ(昔から私は近しい人には、幾ら相手が年長者であろうと、敬語や謙譲語の類いを使えなかった。職場でも、照れくさくて朝の挨拶さえも出来なかった。しかしこの長幼の序に悖る振る舞いは、儒教精神を重んじる朝鮮人・韓国人にとっては家畜にも劣る最低の人間だと看做されていたので、周囲の人達の私を見る目も同様だったに違いありません。また私は亡き両親や、この叔父の前で煙草も平然と吸っていた。要するに幾ら事前に了解を貰っていたとしても、礼儀を弁えぬ、無知蒙昧な阿呆であった{因みに煙草は30歳くらいで止め、以降1本たりとも吸っていない})
と答え、結局叔父の家に着いたのは、午前1時位だった様に思います。
 深夜なのでチャイムをならすのも憚れたが、チャイムを鳴らすとなんと叔母がじゃなくて、叔父が鍵を開けてくれました。何かただならぬ雰囲気を感じた私は、持参した手土産を叔父に手渡し、いつものお客様専用?の通りに面した4畳半の部屋に入ると、何と寝具が敷かれていなかった。あれっ!と思いつつ呆然と突っ立っていると、叔父が何処からか寝具を運んで来て、引いてくれました。
「あれ叔母さんは・・・」と、あれやこれやと考えると考え出すとどうしても眠れず、暫くして布団を畳んで片隅に置き、抜き足差し足で叔父の家を抜け出し、当時1人住まいだった城陽の我家に帰って来て寝ました。
 翌朝叔父と診療所で顔を合わせるといかにも気まずそうな顔でしたが、お昼頃には叔母が来られまして、「昨夜はお土産を有難う。ついつい眠たさには勝てず、叔父に大層しかられましたは・・・」と。
 また、こう言う事もありました。
 診療所での業務を終え、以前お話しました従兄弟と2人、午後10時位だったでしょうか叔父の家の前の路地を、ぺちゃくちゃ声高に喋りながら通り過ぎようとした時、突然通りに面した橙色の灯りが洩れる格子戸の間から背中掻きを突き出し、「おいおい何処へ行くんや」と言うので、「お好み焼き屋でいっぱいやろうとおもっているんやけれど」と応じますと、「わしも行くから一寸待ってくれ」と言うではありませんか。そうです、各位のご賢察の通り、使用中のトイレから呼びかけて来たのです。蛇足ですが、叔父がトイレに入りますと、必ずと言って良いほど、大音響の交響楽が鳴り響いて来ました。演奏される曲目は、非常に多彩で、何ていう楽曲かは、私には皆目見当が着きませんが、叔父が演奏を終了した後は、必ず馨しい香りを漂わせてくれるので、誰もが暫くはトイレの使用を遠慮しました。叔父曰く「人間ならば誰もがする行為で、何が恥ずかしいもあるものか・・・」
尾篭な話で申し訳ありません。
 今回最後にもう1つだけ叔父と言う人間像を形作って頂く上で、お役に立つかどうか分かりませんが、こう言うエピソードもありました。
 ある時午前中の診療を終え、私にこう言うのです。
「お昼私の家で食べるか」
と言いますので、出前の弁当に飽き飽きしていたので(弁当屋さんすみません)、二つ返事で承諾しました。
 その時の叔父の住居は診療所横の南路地の棟続きの1番奥から2番目の所に在った。それは法人の所有で寮であった。
 叔父が家の中に入り、丸いお膳に座ったので、私も座ろうかなと思ったとき、信じられない、耳を疑うような叔父の激昂した怒声が、私の耳に飛び込んできたのである。それは叔母に向けられて放たれた言葉で、何やらお膳に並べられた料理か何かで叔母を厳しく叱責しているのであった。私はと言えばただおどおどするばかりで、と言いますのはその様に激しく激怒する叔父を、かつて見たことが無かったので、叔母が非常に気の毒に思われて、大いに同情したものである。あれだけ温厚で、菩薩のような叔父が、箸が折れるくらいお膳に叩きつけ、大声で叔母を詰るなど、信じられないような場面を初めて目撃した私は本当に、その光景にいたたまれなくなり、逃げて帰りたい気持ちであった。今もってその原因が分からない。
 後にもう1度この様な光景を目撃することになる。それは私に対してであった(続く)

 さて「私の歌の再生回数表」ですが、6月8日現在、38168回となりました。「顕市趙」さんの分と合わせますと約39000回に達します。これも偏に各位のご支援の賜物であると、心よりお礼の言葉を申し述べ上げます。
 「顕市趙」の中の韓国語・朝鮮語バージョンは自分で言うのも何ですが、あまりの下手さ加減に、「もう1度録音為直そうかと、連合いや、次男に相談しますと、いや絶対にこれで良いわ」と異口同音に申しますので、このままにしておきます。
「64才の愛恋讃歌」は、若い頃の「愛恋讃歌」と、2番3番の歌詞を多少変更していますので、お楽しみいただければと思っています。
 でもどちらの楽曲も家で吹き込みましたので、お聴き苦しい点が多々あるかと思いますが、ご理解下されば幸甚に思います。