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前回の続きであるが、叔父と私が診療所の2階にあった4畳半位の食堂で昼食を取っていた時である、もう20年以上も前になるであろうか、何かの話をしていた時にである、叔父が○○○のオモニが何々でと言ったので、私は思わず「えっ」と聞き直したのである。叔父は再び○○○のオモニがと言ったので、私は又も「えっ」と聞き直したのである。叔父は突然箸をテーブルに叩きつけ、大きな声で再び「○○○のオモニと言っ取るのが分からんのか」と烈火の如く怒って言ったのである。恐らく叔父の目は強烈な怒りで血走っていた事であろう。私は稀にしか見たことが無いと言うか、叔父の凄まじい激怒に、「あっ、分かったわ」と答えたのであるが、実は全く理解していなかったのである。
韓国・朝鮮では昔から自分の妻を会話等で相手に伝える時に、自分の子供の名前の後に「オモニ」と付け加えて表現する慣習があったのである。例えば私の長男の名は在淳(チェスン)と言うが、私が相手等に、私の妻の事を伝えたい時は「チェスンのオモニ」と表現するのである。当然ながら聞き手が私の子供の名前を知っていることが大前提になるが。だが、私の家族構成を知らない人には、当然ながら「私の妻とか家内等」と表現することになる。
叔父は私が当然その事を私が知っている物と思い、「こいつわしの事を馬鹿にしている」と思いこみ、激しい怒りを表したのである。
無知な私は「可笑しいな。○○○は独身なはずやのに、なんで○○○のオモニと言うんやろう。いつ結婚したんやろう」と、怒鳴られても暫くは理解出来なかったが、暫くして、自分の配偶者をその様に呼称すると言う事を学んだのである。本当に私は「とんちんかん」であった。
またこう言う事もあった。診療所では夏、冬の2回、職員の慰労会があった。何時だったか忘れたが、ある夏の慰労会の時である。今回は川床の風情と言いますか情緒を満喫するために、ある加茂川沿いに面したお店の川床で開くことになったのである。三々五々職員達はそのお店に集まってきたが、私が行ったときには既に他の職員達はおもいおもいの場所に陣取っていて、末席近くしか残っていなかった。
最後に来たのは叔父(所長)である。残っていたのは最末席だけであった。当然上席に座していた副所長達がその席を譲るものだと思っていた私は、ただ見守っていただけなのであるが、上席に居座っていた誰一人として、席を譲るものが居なかった。
さて宴と言いますか、慰労会が終わり、2次会も終えたその後である。帰路を急ぐ所長の様子が明らかにおかしい。顔には怒りの表情が浮かんでいるのが手に取るように分かる。
異変に気付いた私や、従兄弟や、看護主任がどうしたのかと訝っていると、所長が怒りを隠しもせずこう言った。
「お前らわしをなんやと思ってるんや。所長であるわたくしに末席に座らせるなんて何を考えているんや」と。
語気は頗る荒かった。取分けきつく罵倒されたのが従兄弟であった。私よりは10才位若くレントゲン技師をしていた。彼は副所長と共に上座に席を連ねていたのであった。怒りの矛先が殆んど彼に集中していた。彼はひたすらその非礼を詫びたが、所長の怒りはなかなか収まらなかった。
私にも所長は「お前も末席に座らされて、何で文句の1つも言わなかったんや」と窘められた。世間知らずであった私は、上座下座の事等全く気にも留めていなかったので、爾来会合や集会、飲み会等があると、その事に最新の注意を払った。
叔父も以降は、診療所の面々が無知な集団の郎党と知り、何かのイベントや集まりがあると、常に先に来ていて、然るべき場所に座しているか、佇んでいた。
所長は非常に寡黙な人物であった。人柄は温厚で有ったが、滅多に喜怒哀楽を表情に出さなかった。だから私が、35歳を少し超えた位から始めた新聞の投稿に、私の投稿が掲載されても殆んど何も言わなかったし、表情にも出さなかったが、大韓航空機爆破事件(1987年11月29日)に強い衝撃を受けて書いた投稿文が朝日新聞の投稿欄に掲載された時は違った。
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朝日新聞の朝刊に掲載された1988年2月16日の朝(現在では掲載される予定日を前もって連絡して下さるが、以前は投稿のお礼のお葉書だけは頂いたが、いつ掲載されるか、いや掲載されるかどうかも分からなかった)の朝、事務室の引き戸をがらりと開けた所長は、満面に笑みを湛えて、「読んだぞ」とぼそっと一言発したのである。そして診察が始まると、患者さんや知人や友人達に告げているのである。
「今朝の朝日新聞読みましたか」
私は以前1~2年購読していた事がある京都新聞社様と合わせて、現在に到るまで34~5回程、投稿を掲載され紹介して頂いたが、叔父のこの時の喜び方は、私の記憶している限り後にも先にもこの時1度きりである。
この投稿は我が同胞に非常に大きな影響を受けたようで、会う人々ごとに祝福と賞賛を受けた。ある同人雑誌にまで転載された。
自画自賛気味になって申し訳ありませんが、とに角叔父が大層喜んでくれたのが何より嬉しかった。
さらにもう一言付け加えさせて頂くならば、現在まで1番嬉しかった言葉は、ある時何かの議論の折に言った叔父の次ぎの様な言葉である。
「お前みたいな賢い奴が・・・」
敬愛して止まぬ叔父。エリート中のエリートの叔父。その口から吐かれたこの言葉は、それからは私の心の中で至上の宝玉となり、最上の指針となった(続く)
さて歌の再生回数が6月22日現在39003回に達しました。顕市趙の1096回を加えますと40099回となります。これも各位のご支援の賜物と思っています。心から感謝の意を表します。
就きましては、各位のさらなるご支援をお願い申し上げます。本当に有難うございました。