作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

私と叔父の関係その4

2012-09-10 14:05:36 | Weblog
 さて、晴れて京都大学医学部に入学した叔父は、やはり嬉しかったのであろう。最初は黒の詰襟姿に京都大学の校章が付いた角帽をかぶって電車通学をし始めたのであるが、何時の間にか止めてしまって、普通の服装で通学するようになったらしい。
(以前にも述べたと思うが、現在の私の周りには叔父に関する資料が何も残っていなくて、私のアルバムに貼られた数葉の写真が残っているだけなので、このブログはかすかに私の脳裡に残っている、かなり褪せた断片的な記憶だけで記述せざるをえなく、相当正確さを欠くきらいがあることを御了承くだされば有難く思います)
 当時1960年代前半の朝鮮半島を巡る情勢は、北は金日成体制が確固たる基盤を築きつつあり、南では李承晩政権が崩壊し、朴正煕元大統領が戦車を率いて軍事独裁政権を樹立し、その政権基盤を確固たるものにする為に、躍起になっていた時代である。社会主義、共産主義政権確立を目指す北側と、軍事独裁政権を目指す南側では当然いがみ合い反目していた時代であった。その対立はそっくりそのまま日本にも持ち込まれていて、在日本朝鮮人総連合会と言う北側を支持する組織と、対韓民国居留民団と称する南側政権を支持する組織が存在した。
 その対立の縮図は大学にまで浸透していて、北を支持する在日朝鮮人留学生同盟と、南を支持する韓国青年学生同盟と言う支部組織が、殆んどの日本の大学に浸透していた。
 そして新入生が入学してくるや否や、両組織は様々な方法で接触を試みていた。
 恐らく叔父は入学した当初は、政治的立場は中立であったと言うか、ノンポリであったと思う。ただ、多大な財政的援助を受けていた4番目の叔母の夫には{熱烈な総連(在日本朝鮮人連合会の略称)支持者であり、自らもその組織に加入して、重要な役職を担っていた}かなりの思想的感化を受けていたと私は思っている。
 叔父はひと月に一度か二月に一度は我が家にやって来て、必ず宿泊していた。これは後で分かった事であるが、姉達は叔父に幾ばくかの小遣いをあげたくて、叔父に尋ねて来るように要請していたようである。その事は、叔父が大学を卒業するまで続いていたようである。姉達の経済状況はまちまちであったが、その懐具合に応じて小遣いを渡していたようである。当時、国立大学は私立大学に較べてかなり授業料も安かったのであるが、授業用の教材がかなり高価であったようである。(後で知ったのであるが、1冊2万円3万円もするような教材や、医学用書籍なんてざらである)
 入学して何年くらい経った時であったろうか、政治的にノンポリだった叔父が私に掛けてくれる言葉の内容が次第に変化していったのである。政治的要素が加味されるようになったのである。例えば、「日本が戦争に負けて残念か」「朝鮮人に生まれてどう思う」「日本の軍歌はあまり歌わん方がええで」等々である。
 私は当時小学生高学年か、中学生になっていた様に思う。そして完全なる日本人であったし、さらには大の軍国少年であった。だから、日本軍がアメリカ軍に負けたのが悔しくて、悔しくて、その様な話になると、大憤慨してアメリカを詰ったものである。
 また軍歌もまたよく歌った「貴様と俺とは同期の桜とか・・・」「此処はお国の何百里。離れて遠く満州の・・・」「勝って来るぞと勇ましく・・・」
 また当時、近所に「マーちゃん」と言う非常に絵の描くのが上手な青年がいて、その人が描く軍艦の絵「大和とか、榛名とか、金剛とかの主に戦艦の絵」や、「零戦や隼等」の戦闘機の絵(今にして思えばその人は、何故か第2次大戦中の軍用機ばかり画用紙に鉛筆と消しゴムを使って描いていた)に心酔していて、よくその青年が下宿?していた部屋に押しかけ、その青年が描く絵を飽かず何時間も見ていた。また我が家に帰っても、学校でもその青年を真似て軍艦とか戦闘機を、また私も良く描いていた。
 叔父は、そんな日本軍賛歌をする私に真っ向からひとつ々、質問を投げかけてきて、悉く私の主張を退けていき、朝鮮人としての自覚を徐々に培ってくれた。(続く)

 さて次に朝日新聞に投稿した、投稿文を掲載したいと思います。不採用ににはなりましたが・・・。(1字1句変更していません)

 「男たちの大和」と言うタイトルに惹かれて、レンタルビデオ屋からDVDを借りてきました。
 さてその昔、「マーちゃん」と私達が呼んでいた、当時大学生くらいだったでしょうか、同じ長屋の2階に間借りしていた、絵が非常にお上手なお兄さんが住んでおられて、軍艦や、飛行機の絵を書いて貰う事がお目当てで、よくその部屋に遊びに行ったものでした。
 当時私は大の帝国少年でした。軍艦や戦闘機が大好きで、特に「戦艦大和」や「ゼロ戦」が大好きでした。日本がアメリカに負けたことにも、常々非常に憤慨したものでした。
 現在は病で臥せっていますが、当時学生だった私の叔父が、我が家にやって来る度に、そんな私に色々な質問を投げかけ、日本が如何に無謀な戦争を仕掛け、如何に多くの国々を侵略し、多くの国民の貴重な生命や財産を奪ったか、植民地化した朝鮮半島の人々の文化や姓名や言語を、民族をこの世から抹殺しょうと企図した事実を教えてくれました。
 さて、見終わった私の感想は、日本は広大なアジア地域の住民に塗炭の苦しみを与えたばかりでなく、自国の有為な若者の未来や夢を奪い、犬死にさせた大罪は、未来永劫背負って然るべきであると思いました。そして永遠に憲法9条を放棄しないことを宣言することが、戦没者への最大の供養になると思いました。

 さて私の歌の再生表ですが、今回は朝絢詩(あさけんじ)さんのブログに貼り付けさせて頂いて未だ1週間しか経っていないので、9月9日現在の再生回数のみご報告させて頂きます。27883回になります。
 再生して頂いた各位には心から感謝の言葉を申し述べます。本当に有難うございます。引き続きご支援賜りますようお願い申し上げます。