作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

2011年2月。弟は・・・。

2011-12-15 20:24:46 | Weblog
 早いものですね。もう間もなく2011年が終わろうとしています。
 毎年そうなんですが、今年の1年間は実に色々様々な出来事がありました。特に悲しい出来事が多かった様に思います。今回ブログで初めて打ち明けますが、その最大の悲しい出来事のひとつが、事故で弟が帰らぬ人となった事です。
 当時、その葬儀の様子や、事故の様子を、私が書き記したものが残っていますので、公表したいと思います。
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雪が降っている。
 弟が亡くなった。2月6日の午前2時前に。享年57歳。
節分の日に、トラックから落ちたらしい。その時点で、意識不明の重態。だが5日後、家族や兄弟や甥姪の祈りも空しく逝ってしまった。
 幼少の頃は、今は亡き両親や、おじやおば達に「男前の雄さん」と言われて本当に可愛がられて来た。
高校を卒業すると、祖父が西成で経営する金属会社に就職した。中学校時代から始めたボディビルで筋肉隆々。力はあった。性格は温厚で豪放磊落であった、顔は「梅沢富美男」に似ていると、いとこや仕事仲間に良く言われていた。
 通夜の日、葬儀場は多くの人達で満ちていた。場内は弟の生前の希望で、「アバ」や「JAYWALK」「浜田省吾」の歌声が流れていた。
 定刻になり通夜が始まった。1分間の黙祷の後、弟の希望であったジョンレノンの「イマジン」が流された。私は突然何故だか分からないが強烈な悲しみに襲われた。一度に涙が溢れてきた。そして献花が始まった。
 翌日の告別式は、ポールマッカトニーの「ジェット」と言う曲が繰り返し流され、弟はこの世にさよならを告げた。
 さよなら弟。来世もまた兄弟でいよう。
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弟は,弟の嫁と3人の娘を残して逝ってしまいました。長女は28歳で、一番下は18歳です。
さて、事故はどのようにして起きたのか。18歳の姪の大学受験の日の前日、節分の日に、弟は10トントラックの後部反射板の上の、荷物を出し入れする最上部からコンクリート敷きの地面の上に後ろ向けに倒れ落ちて行き、発見されたときにはいびきを掻き、口から泡を吹いて仰向きで倒れていたらしいです。その横にはコンクリートの溝があったのですが、そこには眼鏡とヘルメットと靴の片方が落ちていたらしいです。場所は大きな工場内でクレーンが設置されており、恐らく鉄の積載具合を確認するために、トラックの後ろ側から登ろうとして、何等かの理由で落下して、後頭部を強打したのであろうと、派遣もとの○○長のお話でした。目撃者は誰も居なかったそうです。だからいままで述べてきたことはすべて○○長の推定による話なのですが・・・。付け加えますならば、弟は倒れていたときには、履いていた片方の足の靴のかかとを踏んだ状態で、恐らくヘルメットの紐を締めていなかったであろうと言うことです。これも○○長のお話ですが。
県立△△病院の救急集中治療室の医師の説明では、首から下はこれと言った損傷はなく、恐らくダイレクトに落下して後頭部を強打したのであろうと推測できるとのことでした。右後頭部が陥没骨折していて、脳座礁の状態であるとも言っていました。
残念無念ですが仕方ありません。
 弟は本当に良い奴でした。亡くなるまでは両親の命日や、正月と盆位にしか会う機会がなかったのですが、何時あっても豊富な話題や経験談を、面白おかしく語ってくれ、何度妹や、妹婿、甥、姪等が抱腹絶倒したことかも知れません。勿論私もです。そんな性格の人間でしたから、誰彼なく好かれ慕われてきました。しかしその半面、その様な快活で爛漫な性格が災いしたこともありましたが・・・。
 長くなりすぎました。家内のことも書きたかったのですが、「朝絢詩」さんのブログに書かせて頂くか、次回に書かせて頂こうかと思っています。
 さて私の歌ですが、この11日に、再生回数が16000回を越えました。心より御礼申し上げます。引き続きご愛顧の程お願い申し上げます。朽ち、腐り、埋もれ、忘れ去られてしまうしかなかった私の歌に、生命を吹き込んでくださったYou Tube様にも心より感謝の意を表したいと思っています。
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 国境無き歌の世界。いま翼を持った私の歌よ、この海あの山越えて、私の化身として世界に羽ばたいて行け。そして永遠の生命を持ち、未来永劫天上の日輪となり、星となり光かがやき続けるのだ。そしてこの地上の一切から悲しみと憂いの涙を拭い去れ。それがお前の使命であり、唯一存在する一切だ。
 また家族から変人扱いされそうなので、今回はこれにて失礼します。