作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

「私と叔父の関係その24」「私の歌の再生表第42回」その他。

2013-12-10 11:42:13 | Weblog
 さて、その日本の学校で行なわれている、年間検診一覧表を見まして叔父と私は非常に驚いたわけですが、財政面の問題でそれら表に記載されている全ての項目を実施するのは非常に難しく思われました。
 当時朝鮮学校の運営は各自治体の援助(日本の全ての地方自治体で援助があったかは不明)と、学生の授業料、及び各種行事広告収益金で賄っていた状態で、この頃から学職員や教員の給与等の遅配が顕在化してきた。(朝鮮民主主義人民共和国からも当時は年に1~3度、「教育援助金」として、年間2~3億円の仕送りがあったが、現在は不明である)
 すなわち、財政が常時非常に逼迫した状態であったのだ。だが、学生の健康状態を保持する活動は最優先されるべき事項なのである。
 さて、学校医制度が確立される以前、内診等の検診以来は、全ての各学校から札ノ辻診療所に検診依頼の電話が掛かって来た。それも全て所長宛である。ところが、所長は事務長に回しなさいと、私に降った。私は受話器を取り、用件を聞く。先刻述べたと通り殆んどが、検診の依頼である。○月△日に検診をお願いしたいのですけれども・・・。私が所長にその内容を告げる。所長は手帳をめくり「ああ、その日は医師会の会合が有るので、他の日にしてもらうか、他の先生に聞いて見てくれへんか・・・」
 検診の時期や、校医が赴かなければならないような行事が間近にさし迫ってくると、叔父と私はある事柄で、よく意見交換し合ったものである。学校関係者には少し耳の痛い話であるが、ご勘弁願いたい。
朝鮮の学校においては、私が診療所を退職するまでは、学校の年間行事の日程を決定していく際に、学校側は、叔父の、或いは学校医の日程なり予定を聞いて、事前の承諾を得るとかは皆無であった。先ず学校側の行事の日程(当事者{医師}不在と言いますか意向や、予定を事前に打診せず)を決め、決まった後にこちらに何月何日に内診を予定していますのでお願いできないでしょうか、と。大抵は、叔父が何とか時間を捻出して対処したのであるが、往々にして時間の調節が困難な場合があった。
 叔父の都合がつかない場合は、叔父の要請で、私が知りうる限りの医師に電話をかけまくった。○月△日に検診をお願いできないでしょうか、と。私はこの検診依頼の電話を掛けることほど否な事は無かった。色よいお返事が即座に返ってくれば、俗に「天にも昇る気持ち」と言いますか、本当に嬉しかったですが、大抵の場合中々都合がつかず、学校側と相談致しまして、日程を変更して頂くか、或いは所長に泣きつくかして、その場を凌いでやって来ましたが、本当に毎年気疲れする思いをしたものです。
学校医制度が不完全ながら確立してからは、少しは精神的ストレスは減少しましたが、即ち、検診等の要請依頼は各学校の「校医」の所に直接電話なりをして頂くようになったからなのですが、でも、双方で調整つかないときには、やはり私に電話なりが、かかって来ましたが、それでも以前の事を考えますと、非常に楽になりました。
事情が許すなら、今後は内診等の日時を決定する際に、事前に校医等に相談していただければ有難く思います。
 さて、学校関係者には少し耳の痛い話をしますと前述しましたが、ご存知だったでしょうか。「日本の学校」に於ける「学校医の扱い」を。私の3人の子供達も全て朝鮮の学校に通っていましたから、私自身も知らなかったのですが、「学校医」と言えば、日本の学校では別格の扱いを受けていたようです。例えば何か行事、入学式とか、運動会とか、卒業式とかですね、が執り行なわれる時には必ず特別席に招待される、強いて言えば上座と言いますか上席と言いますか、に席が用意されているのですね。私の知る限り、札ノ辻診療所に在籍中、上席、上座以前に、招請状や案内状の1通も届いたことが無いのですね。まして、1本の電話さえもありません。私が退職する以前の3~4年頃は、京都朝鮮中高級学校だったでしょうか、京都朝鮮初級学校だったでしょうか、「学芸会」の時だけは案内状が届くようになりましたが、否「運動会」の時も届いていたでしょうか、いずれにしましても、日本の学校の「学校医」に対する接し方と、朝鮮の学校の「学校医」に対する接し方とは雲泥の差があったように思います。
 また、待遇面でも相当な格差があったように思います。勿論日本の学校は、俗な表現で申し訳ないのですが、「親方日の丸」が付いている訳ですから、財政面では何等支障がありません。でも朝鮮の学校は、前記の様な財政状況でしたので、仕方が無かったのですね。また、各校医は当然ながら、朝鮮学校に対しては、利害など無視して、純粋なボランティアの気持ちで活動していた事は疑う余地もありません。
でも、学校側も大抵は、苦心して交通費程度は工面してはくれましたが(後にもっと合理的な方法で検診料を頂く方法を考案し、私が辞職するまではその方法で、医師や看護師の検診出動費を捻出していました)とに角日本の校医とは現在でも、かなりの格差があります。
 最後に、朝鮮の学校では人事異動が、頻繁に行なわれるようですが、それはそれで良いのですが、引継ぎが上手く出来てないケースがままあり、保健事業を行なう上でも、円滑に進めていくうえで、若干の障害と混乱を惹起するケースもあったと聞いていますので、その辺を宜しくお願いしたいものです。第1線を退いたものが言うのも口幅ったいですが・・・。
結論ですが、今回私が述べたかった事は、そうまでもして朝鮮学校の生徒達を、健康面から支援していただいた、また下さる多くの先生方やパラメディカルの気持ちを知って欲しかったからです。現在は知りませんが、日本の多くの歯科医の先生方のご厚情を思いますと、感謝の気持ちを決して忘れてはならないと思います。
我々の間では「なーな」で済ませても、何時までも「井の中の蛙」で有ってはいけないと思うのです。
朝鮮学校に入学させる在日が、年々減少を続けている昨今の状況下にあって、朝鮮学校を存続させて行くには、沢山の難関や問題が山積していますが、さらに多くの日本の各位にも、有体の朝鮮学校の状況を知って頂き、理解と協力と助成とを、声が嗄れるまで呼び続けることが肝要かと、私は考えます。(続く)
以上、身内の恥をさらすな、との罵声も聞こえて来そうですが、私からの心からの進言として、お読み下されば有難く思います(続く)
さて、話は少し変わりますが、各位の中には、偏向教育?を実施している朝鮮学校を卒業した生徒は、卒後も偏向的な組織や機関の職に就き、反社会的行動や活動を行なっているのだろうと、もし考えておられるならば、即座に私は「NO」と否定します。確かにカリキュラムの中にはハングルを学び、朝鮮・韓国の歴史や風習や、文化も学ぶ科目もありますが、教育内容の基本は、現在の日本の社会の中で、民族的自負心や矜持を持ち、如何に日本の法律を遵守し、連帯、友好の機運を醸成していくかにあると聞いております。また卒後の歩む道は百人百様で、高級(高等)学校卒業者の大半は日本の大学で学び、卒後は日本の企業に就職するものが圧倒的比重を占めると聞いています。
私の子供達の進路は、長男は朝鮮学校師範科を卒業後は、朝鮮学校の教師の道を選び、現在に至っていますが、長女は朝鮮学校師範科の音楽学科を卒業後3年間は朝鮮学校の教師をしておりましたが、途中退職し、旅行会社に再就職をし、結果韓国在住の青年と婚姻関係を結び現在第1子が誕生し我家にいます。
次男は高級学校卒業後、日本の大学に進み、東証2部上場の会社に就職しましたが中途退職し、現在は韓国財閥の1つである企業の、日本海外支店に勤務し現在に至っています。
この様に我家の家族だけでも、各人各様の道を歩んでいますが、親類まで範囲を拡大しますと、帰化した者とか、本当に「人生いろいろ」です。もう5世が誕生するように時代になりましたが、私にはこの先、帰化や同化や風化がさらに加速度的に進んで行き、この流れは、もはや押し留めようも無いように思われます。勿論個人的見解でありますが・・・。
それなのに現在、何を恐れて高校授業料無償化停止や、1部自治体の朝鮮学校に対する助成金停止等の措置を実施するのか、全く理解に苦しみます。
話は変わりますが大阪朝鮮高級学校のラグビー部が、今年も全国高等学校大会に、大阪代表の3校の中の1校として出場するらしいですね。是非頑張って優勝してもらいたいものですね。

さて、いつものご報告ですが、2013年12月9日現在「私の歌の再生回数」は46825回にも及んでおります。各位の変わらぬご支援に有難く、厚く御礼申し上げます。普通は、何におきましても立ち上げた時は好調ですが、暫くして、いわゆる「尻すぼみ」になってくるのが普通ですが、少なくとも今現在は、かえって再生回数が増えて来ています。これは各位の温かいご支援の結果だと思っています。有難うございます。年内に朝(あさ)絢(けん)詩(じ)さんのブログでさらに嬉しい結果をご報告出来るものと信じています。
それでは年の瀬を迎え、さらに一層ご自愛下さるようお願い申し上げます。