作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

詩集「野ばらおまえたち」より「嘆息」

2023-05-22 14:54:14 | Weblog
 嘆息  趙顕市(チョヒョンシ)

ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる
朝から晩まで四六時中
勤め励んでやっと得た
すずめの涙の金を持ち
それでもようよう巷に出れば
まあなんと物の高いこと
驚き桃の木目がくらみ
気が付きゃポッケ
生命の金がない
ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる

ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる
毎日毎晩四六時中
怒鳴(どな)られいびられ鞭うたれ
勤め励んでやっと得た
大事なきれいな尊いお金で
彼女に贈った真心花束
ところが彼女の宣(のたま)うにゃ
花束よりも
札束が欲しいのよ
ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる

ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる
ほんにこの世はままならぬ
汗水誠(まこと)が報われぬ
やけくそ気分で喚(わめ)いたら
やって来ました白黒ツートン車
自由は足枷(かせ)狭い折の中
うなだれしょぼくれ空をみりゃ
アホーアホーとカラスが空を舞う
ほんに春だというに泣けてくる
日和うららというに泣けてくる
へい!


※この詩の一部が、1989年(平成元年)5月30日の京都新聞「詩」と言うコーナーに掲載されました。
またこの歌詞にはメロディーが付いています。また機会があればお聞かせしたいものですね。




詩集「野ばらおまえたち」より「無辺の碧空」

2023-05-09 10:17:01 | Weblog
無辺の碧空   趙顯市(チョヒョンシ)

無辺の碧空―
無辺の澄明―
疾(と)く駆けひた走る褐色(かちいろ)の
鋼鉄(はがね)の塊(かい)の列車より
そをまじまじと
まじまじと
あくなく凝視(みつ)むれば
ああ
無辺の憧憬(どうけい)―
無辺の希求―

ああ
無辺の憧憬―
無辺の希求―
遥かなる国々の
遥かなる人々の
遥かなる珍奇な様

遥かなる峰々の
遥かなる樹々(きぎ)の
遥かなる緑(みどり)葉(ば)の合唱(うた)

遥かなる百(もも)鳥(どり)の
遥かなる旋律や
とりどりの音色(こえ)

菫の野辺や
薔薇(ばら)の高原(はら)
無垢なる乙女
なびく髪
目映(まばゆ)い太陽
燃ゆる恋
が ああ
疾く駆けひた走る褐色の
鋼鉄の塊の行く手に我が身を待つは
無辺の苦患(くげん)―
無辺の修羅場ー




詩集「野ばらおまえたち」より 「美き朝」

2023-05-01 16:02:20 | Weblog
    美き朝     趙顯市(チョーヒョンシ)

 美(うま)き朝(あした)だ 清(すが)やかな朝
 窓に照り入る
 目映(まばゆ)き日の光
 そぞろ嬉しく 耳を澄ませば
 なにやら聞こゆる愉快な調べ
 明るく陽気な愉快な調べ

 ああ 心はやるよ妙(たえ)なる調べ
浮きたつ手足 さざめく血潮
あふれる活力(ちから) みなぎる青春(いのち)
辛抱たまらぬいざ行かん!
靴を光らせ 髪を撫でつけ
いざ行かん!

さて何処(どこ)へ
疾く(とく)駆けひた走る我が脚よ

あの娘の店(うち)さ
あの娘の場所(もと)へ
あの娘がたてた
亜細亜で一等美味しい珈琲のみに

嬉しい予感

2023-04-22 20:10:20 | Weblog
 嬉しい予感―    趙顕市(チョウヒョンシ)

あなたと初めてあったとき
わたしの心に
春の息吹が訪れた
朝陽がのぼり
花開き染め 
冷たい真冬の夜の
帳(とばり)は消えうせた
ああ あなたこそ
わたしが永年(ながとせ)
捜し求めた女性(ひと)
やがて緑のそよ風そよ吹く草原で
あなたとわたしは結ばれるのだ

 哀しい夢想―


わたくしの病状最終回「パーキンソン病」

2022-12-31 13:15:50 | Weblog
最近特にやる気が出ないのである。
読者諸賢各位には、もう結論からお伝えしようと思う。
この無気力の原因は何なのか。
その答えは2022年の5月に出た。
脳神経内科の医師はこう言い放ったのである。
「パーキンソン病だと思います」
検査入院する以前にもたまに小刻みな右手の震えがあった様に思う。
それが2~3年のうちに、震えの幅が大きくなったようである。
「パーキンソン病である」そう言われても、即座に理解出来なかった。
知っていたのはプロボクシングの元ヘビー級チャンピオンであったモハメドアリ(カシアスクレイ)が確かその様な病気に罹患していたと言うぐらいの知識しか無かったのである。
それまでは右手の震えは、脳梗塞の後遺症と思っていたのである。
 診察を終えて家に帰るなりパーキンソン病の正体調べである
SNS等も活用して、知識が増えれば増えるほど、恐怖心に体が締め付けられるのである。
 一般論だが、進行性の病気で完治することはない。発症してから、10~15年位で廃人に至る。死に至る。勿論例外もある。20年以上生存している人もいるらしい。外科的療法もある程度確立しているらしい。
高度に発達したと思われる現代医学を以てっしても、詳細が把握出来ていない現状であるらしい。繰り返しますが、あくまでも私個人の一般的見解である。
私に限っての症状を少し具体的に述べますと、とにかく腰が痛いのである。なにもしていない時はなんともないが、中腰になる作業をすると、短時間で我慢できないほど疼いて来るのである。

それと動作がのろくなったと家内から言われる。それと関連するのであるが、歩行がスローになり、長く歩けないのである。また少し歩くと両ふくらはぎに痛みが来て休まずにはいられない。万事全てがこの様な調子で嫌になります。でもめげずに頑張ろうと思います。
以前にも言ったかもしれませんが手の震えがひどくなり、顔や頭の震えも少しずつ出てきているようです。とまあ現在はこんな調子ですが、ご報告しておきます。これで私の病状は終わりとします。
長い間ご愛読ありがとうございます。

 次回からはよもやま話でも書いていきたいと思います。
 
追伸)わたくしの楽曲の数々、引き続き宜しくお願いします。その楽曲のひとつ「愛別釜山港」に12月24日に「いいね!」が追加されました。有難いことです。感謝申し上げます。
  
 いつまでも戦争のない平和な世界が、この地球上の至る所で花開くと良いですね。このメッセージに自分で「良いね!」します。(了)


私の病状その7「満身創痍」

2022-11-06 10:50:47 | Weblog
2018年11月末、私自身、何の病気か良くわからないまま退院しました。
退院してから後も、2~3か月程度の間隔で通院するように言われ、ほとんどがMRI検査の為でした。
検査のたびごとに腫瘍らしきものは小さくなっていき、2021年ころには画像から消えていました。
それから4~5か月に一度の診察になり、画像からは腫瘍らしき影は完全に消失していました。
2022年4月に最後の診察を終えました。この時主治医は、さらに詳細な検査を打診してきましたが丁重にお断りしました。
主治医は「パーキンソン病かもしれんし、よかったら専門医を紹介しましょうか」とも仰いましたが、これもお断りしました。
あまりにも腫瘍の正体を突き止めようと、多大な時間と費用を消費しすぎました。私も家内も間髪を入れず、この申し出を
お断りしました。―――ある時から難聴と黄斑変性症で、診察のたびに家内に同行してもらっていましたーーー
またこの時と同じ二の舞になると、私も家内も瞬時に思ったからです。
 なぜ今頃この主治医がパーキンソン病のことを持ち出したかと考えますと
右手の震え(振戦)が時々診察時に出現していたことや
歩行すると両足のふくらはぎが痛むことなど等何度か訴えたことがあったので
腫瘍の影が完全に消失したので、そのことを思い出したのであろう。
 だが主治医の申し出をお断りしたものの、やけにパーキンソン病の事が気にかかり出したのである。
と言うのも検査入院を終えてからの日常生活を営んでいくうちに、これはと思い当たる節が幾つもあったのである。
 ここで本稿をすこし中断します。ドライアイと涙目と、黄斑変性症の黒影と白内障の為にキーボードを打つ手をたびたび
休めなくてはなりませんので、読者各位には大変ご迷惑をおかけいたしますことをご容赦ください。
まさに満身創痍と言う四字熟語がありますが。一体私は幾つの疾病と共存しているとお思いでしょうか。
思いつくままに病名を書いていきます。
先ず高血圧症、糖尿病、新旧の脳梗塞、便秘、難聴、黄斑変性症、ドライアイ、涙目、胃炎、腰痛症
レム睡眠行動障害、皮膚炎、湿疹、最後に指定難病P病、ざっとこれだけの疾病を抱えて生き永らえています。
現在定期的に通院している医療機関は6件を数えます。医療費だけでも馬鹿になりません。
内服薬だけでも朝9種類、昼2種類、夜6種類、寝る前3種類服用しています。それに後、頓服薬と外用薬。
生きる為にはどのお薬も、欠かすことは出来ません(続く)
 
*さて早いもので、今年も余すところ2か月足らずと成りました。老いてからは、まさに光陰弾丸のごとしで
年賀状のやりとりの時期を迎えようとしています。そこでお願いがあるのですが
このブログをご覧になっていらっしゃる、友人、先生、諸先輩方の中に小生と
賀状の交換をしていらっしゃる御仁がいらっしゃれば、本年から小生は年賀状じまいさせて頂きますので
なにとぞよろしくご理解賜りますようお願いもうっ仕上げます。
言い訳がましいですが、本年の春ぐらいから、体力、気力とも 著しく衰えるのを感じるに至り
回復せず現在に至っている次第でございます。つきましては、多大なご迷惑をおかけする前に、この辺で身を引くのが
賢明じゃないかと判断したのでございます。悪しからずご理解のほどお願い申し上げます。

私の病状その6(丁寧な説明を)

2022-10-08 10:33:08 | Weblog

さて続きを記すにあたりまして、少し本題からはずれますが
今回検査入院するにあたり、内心ではせいぜい2~3日あたりだろうと思っていたので、個室を頼んでしまったのです。
ところが結果的には2週間近くにも及び、 最初にそのことが分かっていれば大部屋を頼んでいたであろうと思うと、病院側も事前に入院期間はおおよそ何日くらいで、費用は個室だと大体これ位はかかりますと説明していただければ有難かったなと、心から思うものであります。
この入院時期が、退職して6,7年経った頃で、家や車のローンも未だ残っていましたので 退院するときには
請求書に記載されている金額を見たとき、大袈裟な表現じゃなくて、顔色があおざめ、血の気が引くのが自分でも分かりました。て話をもとに戻します。腫瘍の正体は何なのか。悪性か、良性か。入院初日から造影剤を注射してMRI検査が行われました。
このMRI検査だけでも6,7回は実施されたと思います。
挙句の果ては、鼠径部から造影剤を注入する血管造影撮影も行われ、初めて留置カテーテルなるものを経験しました。
 脳波やホルター心電図。CTスキャン、眼科での何とか検査その結果は如何に?
読者諸賢各位。私は何分門外漢。色々と書いていますが間違いもあるかも。その時は何分ご容赦あれ。
MRI検査を重ねた結果、腫瘍もどきは縮小していくばかり。入院して6~7日目頃には、画像所見ではほとんど消失していました。
そしてあれは入院して何日目だったでしょうか、担当医が「手術をした方が良いので、家族の方に20時に集まってもらってください}と言われたのは。
 妻と長男が集まってくれました。主治医がMRIの画像を見せながら「・・・なので手術をしようと思います」の説明に、妻と長男は、了承するような返事をしていました。私一人が納得できずにいました。
翌日からも検査は続けられ、結果は上述の通りです。結局手術は見送られることとなりました。
そしてイ・ケプラーと言う抗てんかん薬のみ処方されて、退院の運びとなりました。
腫瘍もどきの正体も不明のまま。(続く)





わたくしの病状その5(道草)

2022-08-01 15:35:13 | Weblog

 さて、今回「私の病状」を、少しお休みさせて頂きまして、「私の病状」ならぬ「私 の   入院歴」を簡単に紹介してみたいと思います。
 最初は、二十歳くらいの時で京都の西院にある病院に検査入院しました。
と言いますのは15、6才の時、当時大阪に住んでいたのですが、球技屋さんで銀の玉を打って遊んでいたところ、突然そのお店の天井がぐるぐる回り始めるので、これはおかしいなと思って店外に出てみたところ、今度は天空一面が回っているのです。これは本当におかしいと思って我が家に帰り、母親に相談したところ、早速近所に在る行きつけの医院に連れて行かれました。
話を聞いた院長は、看護婦さんに血圧を測るように指示しました。するとどうでしょう、上(最高血圧=収縮期血圧)が200(mmHg)あったのです。診察室から院長がとんできて測りなおしたところ、やはり同じような結果が出ましたので、院長が私の母親を呼び、何かひそやかに呟いていました。後でその内容を母親に尋ねますと、院長曰く「息子さんは40才くらいまでしか生きられないでしょう」と言っていたそうです。現在私は73才ですが、本来ならとうに他界しているはずなのですが、こうしてKEYを叩いている現実は、
当時の院長の見立てが間違っていたからではなくて、その時からの医学の進歩と言いますか、まさに飛躍的に発展した為でもあると思うのです。有難いことです。
 と言う訳で、15,6才前後の若者の血圧が、なぜに高い状態が続いているのかを、調査するために初めての入院となったわけです。
一週間くらい入院しましたけれど、結局原因は分からずじまいでした。そこで付けられた病名が「本態性高血圧症」原因が不明ということらしです。 
 二度目の入院は滋賀県の大津市に在る病院で、一日だけの入院でした。
理由は肛門付近にできたアテローム(粉瘤)の切除の為でした。場所が場所だけにその病院の手術室で切除していただきました。剃毛も浣腸も初めての経験でした。その後何回か
その院長にアテロームの切除をしていただきましたが、現在は音信不通の状態です。残念 ながら。
 三度目の入院も上述しました病院で、この時は出血性十二指腸潰瘍で、一週間ほど入院しました。きっかけはトイレで排便した後の便の色が真っ黒に近かったので、「あっこれは
かねがね聞いていたタール便に違いない」と思い、「自分が勤務する職場で胃カメラをしてもらう必要があるな」と自己診断し、事前に採血をしていただいて胃カメラの実施予定日を待ちました。
当日完全絶食で、ベッドにまな板の鯉みたいに横たわり緊張した面持ちで、カメラをのむ時を待っていました。そしてその瞬間が来て、カメラをのんで程なくして、施術者である顔なじみのドクターが、ひと際大きな声で「あっ、噴水みたいに血が吹いている」と、声高に叫びました。それで即入院が確定。と言う訳で顔見知りでもあり、懇意にしていただいていた大津の病院に3度目の入院をすることと相成った次第でございます。
当年とって47歳の晩秋の季節でした。その時に言った私の職場の所長の言葉が忘れられません。「お前なんでそんなに神経をつかってるんや」
そうです。この病気は神経質な性格の人間が掛かりやすい疾病のようです。各位もくれぐれも気を大きく持って、世の中を渡るようにして下さい。とは言っても中々そういう訳にはいかないでしょうけれども・・・。
 とまれ、今回71歳の誕生日を迎える直前に、4回目の入院をすることにあいなったわけです。それでもまあ今回は深刻度が違います。それに3年ほどの前の話ですので、記憶が曖昧な所がありますがご容赦下さい。それじゃ「私の病状」に戻ります(続く)

*さて「私の歌の再生回数」ですけれど、今回は次のようにご紹介させていただきます。
 「人生一度(さる)」 視聴回数13206回 高評価数9人
 「人生一度(セミ)」 視聴回数13320回 高評価数5人
 「野ばらおまえたち」 視聴回数7839回 高評価数4人
 「野ばらあなたたち」 視聴回数7276回 高評価数8人
        以上2022年7月26日現在
今後とも引き続きご声援のほど宜しくお願い申し上げます。
またチャンネル登録の方も宜しくお願い申し上げます。現在168人の
方々がご登録下さっています。有難うございます。

*地球上から戦争を一掃しよう!平和な世の中を実現しよう!(続く)
 
 

私の病状その4「えっ!腫瘍」

2022-07-15 10:34:12 | Weblog
 診療内科の医師に紹介状を書いて頂くことになったのですが
その前に簡単な、認知症かどうかのテストがありました。
そのテストと言うのが、自身の氏名や年齢、生年月日を言わせたり
現在の年号や月日を言わせたりするようなものから、簡単な加減算を
させたりと言った類ものでした。
そうそう、各位の中には私の年齢をご存じ無い方もおられるかと思いますので言っておきます。1948年11月生まれの73歳でございます。あっ話が横にそれました。ごめんなさい。
 さて、次の日に大病院の脳神経内科を尋ねて行きました。
その病院は普段なら我が家から車で20分前後で到着する距離にあり
朝9時から診察していただくために、8時には我が家をでましたが、もうすでに4~5人
待っておられました。上には上があるものですね。
待つこと2時間少々、やっと名前が呼ばれて診察室に妻と共に入り、診察室の椅子に腰掛けました。
 そこには年の頃60歳くらいで、眼鏡をかけた白髪交じりの先生が座しておられました。
互いに簡単な挨拶の言葉を交わした後、本題に入りした。
こちらでも簡単な認知症の検査の後、ドクターは言いました。
「検査をしましょ。血液検査とMRI検査です。外でお待ちください」
 血液検査は2時間たらずで結果は出ましたが、MRIは結果が判明するのはお昼をまたいでと言うことでしたので、院内の一角に設けられたコンビニで軽食を買って、
昼食は済ませました。 そして、午後の何時くらいだったしょうか、待ちに待った待果がでたのは。
私の大脳が写った画像をシャウカステンに貼り付けながら、
ドクターは説明を始めました。
説明を聞くまでは「何ともないはずや」と、変に自信を持っていたのですが、
ドクターの説明に、粉々に砕け散っていきました。
ドクターは「脳梗塞の影があります。そしてもう一個所ここにもあります」と
前頭葉の反対部分 、後部頭葉とでも言うのでしょうか、を指摘しました。
「それとですね、一つ目の脳梗塞の傍に(腫瘍)らしきものもみえるんですよ」
もう、その言葉を聞くや否や、私の頭の中は真っ白。
ドクターの一言一句に辛うじて相槌を打ってはいたものの
心ここにあらずの状態で、次回の精密検査を約束して、病院を後にしました。
いや正確に言うならば、そのあと脳神経外科の先生を紹介して頂き
そのドクターから検査入院を勧められ、妻も憔悴気味だったこともあり
明日以降付添って貰うのは可哀そうだと判断した結果、検査入院を約束して
とりあえずわが家へとかえってきました。
 帰宅した私たちは疲労の極みにありました。そうであるにかかわらず妻は
愚痴ひとつこぼさず半日も付添ってくれ、内心いかに有難く感じたことか、
本当に言葉にできないくらい、感謝の気持ちで一杯でした。
さて、当の私は 腫瘍だったらどうしよう。腫瘍が悪性だったらどうしようかとか等々
あれやこれやと思い煩い、食事も喉を通らず、寝床に就いても、あらゆる不吉な思いが交錯し、ほとんど眠れない状態でした。
認知症から脳梗塞そして腫瘍の疑い。
憂愁は際限なく広がって行きます。(続く)

*  さて「私の歌の再生回数」ですけれども、前回に引き続き今回も
簡単に紹介しておきます。
「哀別釜山港」  視聴回数18405人 高評価数13人
「宇治川未練」  視聴回数14666人 高評価数 6人
「宇治川未練(本人画像)」 視聴回数828人 高評価数3人
           以上2022年7月14日現在
引き続きご支援のほど宜しくお願い申し上げます。




私の病状その3(レム睡眠行動障害)

2022-07-06 10:12:46 | Weblog
 妻からその言葉「あんた認知症やて」と聞かされた時
ほとんど倒れそうなくらいと言いますか、自失呆然のあり様だったのですが、
辛うじて態勢を立て直し、妻に聞き返しました。
「認知症やて、それでなんて」
「いやそれしか聞いてへんね」

辺りを見回しますと 、あんなに混みあっていた待合室も
患者の姿がほとんどみあたりません。
検査室に入ってから、私自身が思っていたよりも、かなり時間が経っていたようです。
しばらくすると、私を検査した先生が私たちの前まで来られて
妻と二言三言、言葉を交わすと、先生は去って行きました。
「何を話しとったんや先生と」
不安や恐怖、その他何やら名状し難い感情が入り混じった意識の状態で
ほとんど詰問調で、私は妻に尋ねていました。
妻は「院内でもあるので、家に帰ってから相談しましょ」と答えるのみで
私もそれに応ずるより他にありませんでした。

でも納得のいかない私は帰路の車中で妻に質問攻めでした。
「一体全体それらしき検査も問診もせず、どうして認知症やと分かるんや」等々。
どれくらい妻と話しあったことでしょう。
そして次のような結論に達しました。
その結論とは、
当時私が受信していました心療内科の先生に相談してみようということでした。
翌日早速妻が電話で予約を取り、後日診察を受けることにあいなりました。
この心療内科にはかなり以前から受診していました。  
 実は私にはレム睡眠行動障害と言う病気があり、何年来と悩まされてきました。
いつかかは忘れましたが、ある時TVのスイッチ入れると
その病気で苦しんでいたと思しき患者が出演していて 
熟睡(レム睡眠)下にある時の行動を紹介していました。
その暴言を吐く様は、人に殴りかかるなどの振る舞い等は
まさしく、夜間の私と全く同じ状態であり、
妻も私も夜毎おびえ切っていた正体であり
苦しめられていた加害者がそこにいたのです。
「レム睡眠行動障害」
その番組の後半で、特効薬も存在すると締め括っていました。

早速私は我が家の近辺の精神科をスマホで検索をし
お世話になっていたと言う次第です
 さて、指定された日に心療内科に赴き、
受診することになった一連の経緯を話しました。
「眼科での認知症発言は的を外れたものであり、納得がいきません」と主張すると
40前後の院長は「総合病院の神経内科」の紹介状を書いてくれました。(続く)

 *「私の歌の再生回数」ですけれど簡単にご報告しておきます。
 「愛別釜山港」韓国語バージョン 「視聴回数」91462回「高評価」101人
 「愛別釜山港」日本語バージョン 「視聴回数」26222回「高評価」40人
 「愛別釜山港Ⅱ」韓国語バージョン 「視聴回数」36374回「高評価」38人
                       (2022年7月5日現在)
まだYouTube様には11曲ほど、登録させていただいていますけれども
今回はこの3曲だけご報告させていただきます。残りの楽曲はまた追々ご報告
させていただきます。
 それと誠に厚かましお願いですけれども、これら楽曲をご視聴していただいて、
もしよければチャンネル登録を していただけないでしょうか。
現在3人いる孫たちに、お金の無いじいじ(ハラボジ)からの、ささやかな遺産
心の遺産として、贈って上げたいと考えるからです。宜しくお願い申し上げます。
因みに現在チャンネル登録者数は166人です。
登録者名はKenichicho(趙顯市)です。