作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

火傷の魔の接吻。その2。

2010-01-11 11:06:13 | Weblog
 「火傷の魔の接吻。その1(09年6月10日)」に書かせて頂いた運動会ですが、私は内心よほど嬉しかったんですね。その時の担任が、運動会のハイライトである長距離走にクラスの代表として私を選んでくださり、出場したんですが、最初の1、2週はダントツのトップでやんやの喝采、拍手を浴びたんですが、最後は先頭からの何周遅れだったでしょうか、どべた(大阪特有の方言でしょうか)の、要するに最後尾を今にも倒れそうな姿勢でよたよたと走っていたんですが、これがまた同情の激励と拍手を浴びたことを、哀しくも懐かしく思い出します。
後々思ったことなんですが、この時の担任が、速くも持続力も無い私を、長距離走の代表に選んでくれたのは、少しでも長く火傷の脚を晒しださせることによって、「そんな傷跡は何でもないんだ。勇気を持ちなさい」と思いやって下さった御配慮だったように思い出すんです。ほんとうにありがたいことです。担任の尊顔は明瞭に脳裏に描き出すことが出来るんですが、お名前がどうしても思い出せません。
また、こんな願い事をよくしてよく眠りについたことを思い出します。小学校の頃はもちろん、高校生になってもそうだったように思います。それは、眠りに就く前に神仏にお祈りをするんです。明日の朝目覚めた時には、火傷の痕がきれいに消えうせていますようにと。でも当然の事ながら、翌朝姿見の前に立って、右脚を恐る恐る見ると、祈願も空しかったことをしり、悲しみのどん底に突き落とされるのです。
また、私を魔法使いか、忍術使いにしてくださいと。これまた神仏によくお願いをしました。魔法や、忍術をもって、醜い火傷の痕を消そうとしました。そして呪文を唱える。目を瞑り目を開ける。何度試みてもいつも失敗する。当り前なのですが・・・。
大学生のときでしょうか。どこで飲んだのかは思い出せませんが、かなり飲んだのでしょう。そのような事で常々苦悶していることは、誰にでも言ったことはなかったのですが、その時は泣きながら断片的に、今は亡き両親に胸の内を吐露したことがあります。
いまにして思えば、両親は私以上にそのことを知っていて、切ない思いに日々とらわれていたのに、直接当人からそのことを打ち明けられる辛さは、いかばかりのものだったでしょうか。本当に申し訳なく思います。