保険請求を任せていた2人がとても中の良かった関係だった筈なのに、いつの間にか顔を背け会い、言葉も交わさない状態になってから、いつしかどちらからとも無く退職していくようになり、急遽保険請求のエキスパートが必要な事態になったのです。が、所長が丁度良い人材がいると、その方に正規職員になって頂こうと言われるので、私もこの際だからと二つ返事で、承諾しました。
新入職員なりを雇用する時は、大抵余程の事がない限り、所長と私とで面接する事になっているのですが、役割分担も決まっていて、所長がこの診療所の沿革なり概要を説明し、次に、私が給与、勤務時間等待遇面等を述べるのですが、この時はどうだったのか、私の脳裡には、明瞭な記憶が残存していません。しかし、その方の爽やかでにこやかな笑顔は何故か今も明確に私の記憶の中に蘇ってきます。いや、面接の席で履歴書を見た記憶も、おぼろげながら浮かんできます。
この方は大阪の八尾市から通ってきてくれました。一言で述べますならば、本当に良い娘さんだったと思います。礼儀作法も弁えていて、正しい躾も身につけておられ、それは申し分の無いお嬢さんだったと思います。
私がいちばんびっくり仰天したのは、あれは忘年会の時だったと思います。場所は京都祇園や、木屋町辺りの由緒ある料亭だったと思いますが、家が大阪だったので、彼女が早い目に席を外しますと正座して一同に頭を垂れ、俯き加減で膝を屈曲したまま襖の所まで行き、そこで又、正座をし直して、襖を両手で開け閉めし、立ち去って行った時です。私自身大変驚いたことは先ほど書き記したと通りですが、満座の人が一瞬沈黙にとらわれ、誰かが開口するまで暫時時間があったようです。そして後は、彼女を賞賛する言葉が交差するばかりで、場が大いに盛り上がり、大変楽しい忘年会であった事をありありと思い出します。
また、とある病院で人工透析を週に3回受けながら、当診療所に勤務する方がおられたのですが、正職員となって頂いた前述の、八尾から通勤されていた女性の起居振舞いにいたく感心され、好意以上の感情を抱いていたように思われます。
この方も非常な好青年でしたが、ご出身は広島県で、そちらの朝鮮高級学校を卒業され、京都の朝鮮学校で勤務されていたのですが、腎臓を患われ、恐らく腎不全だったのでしょうが、学校を退職せざるを得なくなり、誰かの紹介で当診療所の職員となられたのですが、
当時の技術では人工透析を受けると5年だったか、10年だったか忘れましたが、それ以上生存されることは殆んどなかったようですね。結果的にはこの方は、13年か14年かくらい生存しておられたのですが、お亡くなりになられました。
話はまた少し脱線しますが、この方(仮にKと呼ぶことにしましょう)私と同じ1948年生まれだったんですが、診療所の正社員となられるまでは全く面識が無かったのですが、同じ年と言う事もあり、気が置けない間柄となりまして、色々なことを話し合ったことを覚えています。透析中にもでかけては話し合い、当時1人住まいだった城陽の私の家にもやって来て、焼肉を食したり、スナックに出かけたりで、人工血液透析患者さんには禁忌に近いことばかりやっていたのですね。塩分制限や、水分制限等。でも非常に楽しいひと時でした。私もそれらの遵守するべき事項を心得ていたのですが、Kが明日は透析だから大丈夫だと言い張るので、ついつい無茶をしてしまうのですね。
当時は現在みたいに透析時間も短くなくて、一回につき最低8時間は必要だったのですが、それを週に3回行はなくてはなりませんでした。Kも透析が終わった後は非常にしんどそうでした。手首に付けられたシャント(静脈と動脈を繋ぐ血液回路。おもに手首や腕に外科的に造設された)も痛々しく、しばらく使っているうちに駄目になって行くので、シャントを何回か付け替えていました。精神的にも不安になるようで、当時当診療所では薬局長の肩書きを持っていたのですが、欠勤することも度々で、その都度私が代行していました。
Kは若くしてその生涯を閉じてしまいましたが、何時かは私も満身創痍の身体を棺に横たえる日が遠からず(出来るだけ遅い方が良いのですが)来るでしょうが、あの世(あるのかどうかは私は知りませんが)とやらで再会する機会があるならば、ずっと心残りになっていたある非情な行為を詫びたいと思っています。それは私が現在の家内と所帯を構えて直ぐの頃です。診療所の各位を我家にご招待した時でした。昼過ぎから始まった小宴は夜遅くまで続き、各自が三々五々我家を後にし始めた時です、Kも「それじゃ僕も帰るは」と言った時、喉元まで出掛かった言葉を私は飲み込んでしまったのです。「今日は大変疲れたやろう。泊まっていったら」と。Kの様子から疲労がありありと見て取れたのに・・・。
Kもその言葉を期待していたであろう事は、その疲弊した顔色から十分に読み取れたのだが・・・。
私は沢山の悪いこと、世間様に非難されるかも知れない事をしでかしてきましたが、この事柄も長らく私を苛んだ出来事の1つだった(続く)
次回は私の叔父の大きな功績である同胞医療は勿論であるが、朝鮮学校に通う子弟たちに対する学校保健関係の事を、そろそろ記憶が薄れて仕舞わないうちに書き留めておこうと思っています。
ではお待たせいたしました。いや、期待していないって。まぁまぁそう仰らずに私の報告に少しばかりお耳をじゃ無くて、お目を拝借させて下さい。
「私の歌の再生回数表」のご報告ですが9月1日現在42749回となりました。ひとえに各位のご支援のお陰です。心より感謝の意を表したいと思います。本当に有難うございます。19時半過ぎに、その日1日の最終集計結果を書き記すのですが、毎日毎日どきどきものです。歓喜に快哉を叫んでみたり、打って変わって悲嘆に沈んでみたりで、自分でも再生回数1つで何故こうも悲喜こもごもと言いますか、一喜一憂しているのだろうかと思案する事が多々ありますが、要は各位に私の楽曲の人格が認知されているのかどうか、換言しますと、各位が生活を営む上での、欠く事のできないパートナーとしての地位なり立場を補償されているのかを測る上での大きな尺度として、私にとっては認識されていると言う事です。
繰り返し申し上げます。各位の真心からのご支援に心より感謝申し上げます。
最後に藤圭子さんがこの22日にご逝去されました。私もよく「圭子の夢は夜開く」「新宿の女」など歌わせていただきました。ブラウン管からご拝見していた限りでは、独特なイメージを持った方で、声も少しハスキーな感じで、暗い歌の内容と非常にマッチしていた様に思います。でも、お昼の朝日放送系の番組ワイドスクランブルを見ていましたら、インタビューに答えられて、非常に興味をそそられるような内容を澱みなく答えられていたのが、強く印象に残っています。ご冥福をお祈り申し上げます。