作曲家・趙 顕市の「愛別釜山港」

私が作詞・作曲した「愛別釜山港」「野ばらあなたたち」の紹介。歌は韓国の「ソン&リー」という姉妹歌手が歌っております。

歌の再生回数その11。「私の叔父の関係その3」

2012-08-13 11:17:04 | Weblog

 私は自分の書いたブログを殆んど読み返すことはしないが、さぞかし誤字脱字、文脈の乱れ等はひどいものにあるに違いない。ご容赦下さい。
さて叔父は4番目のお姉さんの計らいで、大阪市の東淀川区にアパートを借りてもらうことになり、そこで受験勉強に専念することになった。
 当時その辺り、叔母や叔父が居住していた一帯を、私たちはただ漠然と三国と呼んでいた。後に5番目の叔母も、結婚を機に京都市内から三国に移り住んで来るのだが・・・。
   話は少し脇道にそれるが、当時4番目の叔母達が住んでいた一画は、道路も舗装されておらず、雨が降ればぬかるんでいた。また大きな蓮池(私はよく蛙やザリガニを捕まえた記憶がある)や空地があって、現在の近代的なビルが間隙無く建ち並んだ様子とは隔世の感がある。現在の様なビル街に相成ったのは、何年か後に新大阪駅が出来、新幹線が開通し、また万国博への交通のアクセスを良くするために建設された新御堂筋(高架式)が通ってからである。それ以前は本当に田舎であった。
 1958、9年、昭和33、4年と云えば私は10歳位で、当時の日本の経済状況や私たちの暮らし向きなど、殆んど記憶していないが、4番目の叔母達は、通称「朝鮮部落長屋」と呼ばれていた平屋建ちのぼろ長屋で暮らしていた。だが、私の薄っぺらな断片的な記憶では、4番目の叔母の夫(当時私たちは清水のアジェ「韓国の方言でおじさんの意味」と呼んでいた)の暮らし向きは良く、いわゆる土方の親方をしていて、ダンプカーも何台か所有していてように記憶している。(余談になるが、この4番目の叔母の夫は通名を清水次郎と言う。通名を付ける時に、どの様な名前が良いだろうと思案しているときにたまたま観た仁侠映画、清水の次郎長が凄く格好よかったので、その名を頂いて清水次郎と名付けたと言われている{真偽の程は定かではないが}本名は鄭同{ていきつどう}と言う。既に故人となられた)
 当時、私の家と清水家は仲が良く、頻繁に行き来していたように思う。それは姉妹同士と言う間柄であったせいもあるが、生活が両家とも安定していたと言う理由もあったようだ。
 本稿を進めよう。叔父は浪人生活に入ったのであった。この時点で一浪していたのか、二浪していたのか、記憶が定かではないが、私はオモニの言い付けで、何か成人式のお祝い物を届けに行き、叔父が近くの銭湯に連れて行ってくれ、その後4畳半だったか、6畳だったかの一室で、2人でケーキみたいなものを食し、二十歳を祝ったことを、おぼろげながら記憶している。
 その夜は叔父と一緒に眠ったことも。いや眠った振りをして叔父は、私の眠ったことを確認してから、きっとまた机に向かったに違いない。(後々まで語り継がれている叔父伝説なるものがある。それは叔父が座り続けていた場所の畳が擦り切れていて、ぼろぼろになっていたと言う事である)
叔父は、朝・昼・晩は叔母夫妻の長屋に行って食し、幾ばくかの小遣いは、私の母をはじめ、嫁いだ姉達が与えた。
あれは1960年だったろうか、61年だったろうか、初春。私の母が狂ったように、喜び叫んでいた。「春雄が京大医学部に合格した!京大医学部に合格した・・・!」
 姉達や兄や義兄の篤く、尊い援助や励ましで勝ち得た勝利だった。特に財政的に多大な援助をした清水のアジェの惜しみない支援が無かったならば、恐らく春は永遠に来なかったであろう。
 しかし私は当時、そんなに母親が興奮するような一大慶事とは、露ほども思っていなかった。ただ母親が珍しく興奮していたので、なんか凄い事なんやと子供心に思っていただけである(長じるにつれその凄さが次第に理解出来るようになっていったが・・・)
 叔父はその春から、東淀川から京大に通学するようになったのであるが、その大学で叔父は人生観、世界観を一変させるのである・・・(続く)
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  さて私の楽曲の再生回数表ですが、いつもは朝絢詩(あさけんじ)さんのブログに掲載して頂いていますが、今回は私のブログに掲載することにしました。
 各位には本当に々有難く思っています。You Tube様に掲載して頂いてから、約2年も経つにも関わりませず、未だ毎日、沢山の方に再生して頂き心から感謝いたしています。
 つきましては引き続き御支援賜りますようお願い申し上げます。
 酷暑の折、心よりお見舞い申し上げます。くれぐれもご自愛下さい。
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「私と叔父との関係」に関しましては、資料が手元に無いために、又事情を知る殆んどの人が物故者となっていますので、以前にも申し上げましたが、私の薄っぺらで断片的な記憶だけで記述いたしていますので、誤謬があるかも知れませんがご容赦下さい。