日々の覚書

MFCオーナーのブログ

Happenings Ten Years Time Ago

2005年12月17日 00時31分46秒 | 与太話
12月も半分が過ぎ、2005年も残す所あとわずかだ。うちの会社に関して言えば、年内の営業日は残り7日。秒読みである。ほんと、今年は早かったなぁ。思い返してみると、実に色々な事があって充実していた一年だったと言えるだろう。自分の生涯でも印象的な年として、2005年は長く記憶されるに違いない。

所で、ここ10年で見てみると、印象的だった年が3回ほどある。1995年、1998年、2001年、の3回だ。この時一体何があったのだろう。振り返ってみると、

1995年
この年はなんといっても、阪神淡路大震災であり、オウム真理教である。この年ほど、めまぐるしく新聞の一面を大事件が飾っていた年はないように思う。年が明けてすぐ大震災。当時、神奈川県に住んでいたので、実感としてはやや乏しかったのだが(被災地の皆さんには申し訳ないけど)、テレビや新聞で見る地震のニュースは大きな衝撃だった。地震で家屋が倒壊しても火災保険はきかない、なんて事を知ったのもこの頃で、日本中の人たちが、改めて地震への関心と警戒を深めたのではなかろうか。後年、関西へ移ってきて、神戸の三宮付近へ行ってみたら、地震の痕跡はほとんどなく、その復興のパワーにひたすら感心した記憶がある。
そして、3月に起きた地下鉄サリン事件、それに続くオウムネタの数々。テレビも新聞も雑誌もオウム真理教についてのニュースが流れない日はなく、日本中がオウムウォッチャーになっていた。あの頃、みんなオウムに関してはやたら詳しかったよなぁ(笑) 公衆の面前でのオウム幹部刺殺事件とか警察長官狙撃事件とか、まるで映画でも見ているかのような、ある種非現実的な事件が常に新聞の一面を賑わしていた。うまく言えないけど、ヘンな空気が漂っていたような気がする。何が起きても不思議ではないような。“世紀末になると、人心は不安定になり、その結果宗教が流行る”という言葉を思い出したりしていた。
個人的には、この年の2月初めてエルトン・ジョンのライブを見た事が思い出深い。マジ感動したなぁ(笑)

1998年
この年が何故印象深いか。社会的な出来事とは全く関係なく(笑)、きわめて個人的な事なのだが、この年の5月ついにパソコンを買ってインターネットを始めたのだ。僕個人はこの年を“インターネット元年”と呼んでいるが(笑)、大げさでなく、この年を境に僕の人生は変わってしまった。毎日会社へ行って適当に仕事をし、休日は好きな音楽に浸る生活を何年も続けていた僕が、新しい世界を知り新しい友人を得て新しい活動を始めた、そういう年なのだ。ある意味殻を破ったというか壁を乗り越えたというか。だいたい、30も後半になってから、仕事以外で新しい知り合いが出来るなんて、考えた事もなかった。元々そんな社交的でもないし。所が、インターネットを始めた事によって、同好の士と何人も知り合いになり、これまでとは全然違う方向へ僕の世界が広がり始めたような気がする。この年の暮れ、ネットを通じてしばらくご無沙汰していたバンド活動も再開した。今の僕のほとんどは、この年から始まっている。ただスタジオで音を出すだけではなく、ライブを目的としたバンド活動は、後のFIREWALLやFOREFINGERといったバンドに繋がっていくし、この翌年には自身のホームページを開設するに至った。実は、当サイトでもお馴染みの忍者さんと知り合ったのもこの1998年なのだ。本当に、僕の第二の人生のスタートの年と言っても、過言ではないかも(笑)

2001年
この年も色々あったよ。出会いも別れもあった(笑) FIREWALLも年間4回もライブをやったりして、活動のピークだった。横浜FCはこの年からJ2に昇格したし。人間関係に嫌気が差して、本気で会社を辞めようと考えていた年でもある。つまり、私生活は好調だったけど、仕事(会社)面では最悪だったという訳ね。会社を辞めようと決心しただけで、こんなに気持ちが軽くなるものなのか、と驚いたものだ(笑) ま、最終的には会社を辞めるのは思いとどまり(この時点で僕は負け犬となった)、辞令を受けて秋から関西へ来た訳なのだが、これは一応正解だったと言える。正にターニング・ポイントと言っていい年だった。

ま、今年も含め印象に残る年も多く、思い出深い10年だったと言っていい。波瀾万丈とは言えないが(爆) 来年以降も印象に残る年が続けばいいなぁ、と思っている。あ、それと、記事タイトルはもちろんヤードバーズの曲名からで、大した意味はない。僕にとって、この10年は決して“幻”ではなかったしね(笑)

コメント (8)
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