イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

もっと乳酸を!もっと匍匐前進を!

2008年05月29日 01時00分43秒 | 翻訳について
翻訳という仕事に携わる人たちは、確固とした「モノ」を作るわけじゃない。つまり、鉄とか車とか野菜とか、そういうずっしりとした手ごたえのあるモノを生産するのではない。翻訳が生み出される「場」は、建築現場とか、マグロ漁船とか、そういったマッチョで汗臭い「現場的な」世界ではない。どちらかというと、それは古くは清少納言にまでさかのぼる、雅でいとおかしな「枕草子的な」世界なのであって、箸より重たいものは持たないといったら言いすぎだけど、実際、広辞苑とかランダムハウスの辞書とか、それ以上に重たいものは持たないでキーを打ち続けるのがトランスレータなのであって、ちょっと仕事場から離れてみれば、現場仕事の人達が汗水たらして働いているのだけれど、それを横目に、カチャカチャとキーボードを叩いて「おかしなもの」を言葉にするということで一日を過ごしているというのが、ちょっと極端ではあるけれど、翻訳者の世界なのだ。

目の前にある重たいものを散々運び倒したオッサンたちが、乳酸のたまった筋肉に心地よい疲れを感じながら、缶コーヒーとタバコで一服しているのが「リアルワールド」だとするならば、それとは対極にあって、ボールペンよりも重たいものをもたずに天下国家を、世界のグローバル化を語ってしまうという「虚」の世界にいるのがわれわれだ。僕は自分が男だからそう感じてしまうのだとは思うけど、やっぱり重たいものを持ってる人って、偉いと思ってしまう。汗をキラキラさせながら、二人一組で大型冷蔵庫なんかを運んでいる引越し屋さんとかをみていると、なんというか、まっとうな仕事をしてるな~、としみじみしてしまうのである。だからといって、僕は翻訳という仕事がとても好きなのであり、この仕事に誇りを持っているのであり、やりたくてこの仕事をやっているのであるからにして、そういったいいアセ掻いている人たちのことをただ単にうらやましいと思っているわけではないのだけど、なんとなく仕事をやってもやっても筋肉に響かないというか、乳酸がたまらないというか、そういうフィジカルな物足りなさをやっぱり少しは感じてしまって、それでついつい、仕事の合間に腕立て伏せをしたり、腹筋をしたり、そこらを歩き回ったりするのだけれど、そういったトレーニングによって感じる疲労感と、仕事によって感じる疲労感というのはやっぱり違うものであって、肉体労働をした後のあのなんとも言えない心地よい疲れというのは、やはり働くことによってしか得られないのではないだろうか、などと思ったりするのである。ともかく、翻訳はマッチョな仕事でもないし、ずっしりとした物体を作る仕事でもない。生み出しているのは言葉という二次元の情報なのであって、成果物を量りに載せることもできないし(紙を載せることはできるけど)、なんとかしてそこから「リアル」な何かを作り出そうともがき苦しんでいるのが我々翻訳者なのではないだろうか。

だけど、翻訳にも、やった仕事を「モノ」として感じる瞬間がある。翻訳したデータを、プリントアウトする。環境のことを考えると、あんまりむやみには紙に出力したくはないのだけど、やっぱり紙に打たれた訳文を読むのは楽しいし、嬉しい。あるいは、訳したものが書籍になる。これも言葉にならないくらい嬉しい。訳した文章が、ウェブサイトに掲載されている。それも嬉しい。なにより、ギャラが振り込まれたら、汗水たらして働いた成果や~、なんやその辛気臭い顔は、酒や酒、酒買うて来い~と、思ってしまうのではないだろうか。

言葉はそれを吐いたもののモノでもあるが、いったん世に出てしまえば社会の共有物となるとも言える。自分の脳内にあった言葉が文字という形になり、紙なりウェブサイトなりに掲載されて、不特定多数の目に触れる。そのときに感じる喜びの源泉となっているものは、自己顕示欲だとも言えるけど、それとは別に、個を超えて社会と通じている、言葉=コードによって社会と互換されることの喜びを感じているのだと思う。それは大工さんが自分が建てた家をみて喜んだり、引越し屋さんが荷物をすべて運び終えた後に充実感を感じたりするのと似た感情なのかもしれない。そうしていったんは形になったものも、やがてはどこかに消え去ってしまう場合も多い。だけど、そこにも滅びの美学といったものがある。精魂こめて何かを作り、社会に投じる。それが一過的なもので、すぐに消え去ってしまうとしても、だからこそ感じる喜び、自己を無にする悦楽というものがあるに違いない。一生懸命に作った料理を、誰かが美味しい美味しいといって食べてくれるときのように。

というわけで、何が言いたいのかまったくわからないまま今日もつらつらと思いつくままに駄文を書いてしまったのだけど、結論的には、翻訳は一件ソフトで非肉体系で、指先一つで心にもないこと、知りもしないことをああだこうだともっともらしく書き連ねてお金を稼ぐ「いやらしい」職業だともいえるけど、実はガテンの人たちに負けないくらいハードな仕事をしているともいえるし、何かを形に残すことだって十分すぎるくらいにできるし、とっても素敵な職業ではないかと思うわけなのだけど、やっぱり筋肉が疲れない、そして肩がこったり目が疲れたり腰に激痛が走ったり胃が荒れたりといった嫌な体への響き方をするあたりがなんとも陰鬱に感じられるので、もっとあっけらかんと厳しくも爽快感のあるマッチョな翻訳の方法はないものかと考えてみたいところなのである。

というわけで歩きながら翻訳するとか、走りながら翻訳するとか、空気椅子に座るとか、キーボードがものすごく重たくて入力するのに腕力がものすごく必要になるとか、辞書が鉄で出来てて引くとものすごく大胸筋が鍛えられるとか、誤訳をしたら無条件にスクワット100回その場でやらないといけないとか、プリントアウトした用紙を廊下に一直線にならべて匍匐前進しながらつき合わせチェックしていくとか、そういったいい汗掻きながら翻訳できる方法というのを模索してみたい今日この頃なのである。

手に触れえぬ言葉だけ書き連ねており熱き血潮流れる君の横で

『風味絶佳』山田詠美
『臨床恋愛病講座』フランク・タリス著/春日井昌子訳
『輝ける日々』ダニエル・スティール著/畑正憲訳
『会いたかった』向井亜紀