イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

私にそれを言わせているものは何か

2008年05月06日 23時51分53秒 | Weblog
大型連休の最終日にして、ついにピーカン。雲ひとつ無い、抜けるような青空。欲を言えば、最後の最後にここまで徹底的に晴れなくても、途中でもうちょっと小出しにしてほしかった。などと、清々しい天気の下、あまり清々しくもない恨みがましい気分を残しつつ、ジョギングした。途中でかなり歩いてはいたのだけど、結局四時間もウロウロしてしまった。疲れたけど、満足。

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ところで、巷でよく使われる「私に言わせれば」という表現のことが、以前から(喉に魚の小骨がささっているように)気になっている。これはたぶん、翻訳されたものがそのまま日本語表現として定着したものの一例ではないかと察するわけなのだけど(オリジナルは、おそらく"If you ask me"あたり?)、なんとなく日本語の文脈の中では、しっくりしないときがあるのではないかと思ってしまうのだ。

「私に言わせれば」を誰かに「言わせている」心理とは、(そう言っている)自分には世間一般とは違って、独創的で深遠な考えがある、というくらいのものなのだろう。そうした気持ちは誰しもが持つものだと思うから、それ自体については別段何も感じない。特に、自分の専門分野や、特別な意見を持っている対象については、思わず「(世間では○○だと言われていますが)私に言わせれば」というセリフを発してしまう気持ちはよくわかる。

むしろ気になるのは、この「私に言わせれば」という、よくわかるようでわからない構文の方だ。いったい「私に何かを言わそうとしている」のは、誰なのだろう? 世間一般? 自分自身? それとも、神? たとえば、そこらへんのおっさんが、普通にしゃべっていたと思ったら、やおら「私に言わせれば」と口にするわけだけど(この表現、どちらかというと年配の方がよく使うような気もする)、なぜここで突然「私」に対する過剰な客体化が行われてしまうのだろうか。この唐突な、私に対するメタな視点の導入はいったいどういった風の吹き回しなのだろうか。この表現だけが、明らかに日本語のそれまでの構文のなかで浮いている気がする。同じ意味でなら「私が思うに」とか、「私の意見では」とすればより素直に表現できるところを、なぜ「不明瞭な主体によって意見を求められている私」というフィクショナルな状況を会話の中に導入させる必要があるのだろうか。もちろんそこには、「自発的に意見を述べる私」よりも「誰かによって意見を求められている私」、あるいは「意見を求めて欲しい私」という心理が存在していることは感じられるし、それが表現に多様さと面白さを与えていることは事実だ。「誰も俺には訊いちゃくれないけどさ、でもさ本当はさ、こういうことなんだよ、俺はそれをわかってんだよ」というじれったい思いが、満を持しての「私に言わせれば」に繫がるのだろうとは思う。

それにしても、やっぱり「私に言わせる」というのはなんとも持ってまわった言い方だ。たとえば、他の動詞を使ってみればその「ヘンさ」加減がよくわかる。「私に食べさせれば、このロースカツ定食は美味しいですよ」。「私に走らせれば、マラソン三時間台で完走できますよ」。「私に遅刻させれば、給料減俸されますよ」。となんだかわけがわからなくなる。ともあれ、つきつめて考えれば、何かを公に発言するとき、そこにはごく僅かではあれ、ほぼ必ずといっていいほどの「私に言わせれば」的なニュアンスが含まれるかもしれないのであり、まあ、この文章にもそれはあるわけなのでした。

「私に言わせりゃあんたが悪い」と訊かれてないのに言っちゃう私