イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

「ダブルのスーツの持ち主を探しています」

2008年05月15日 01時52分29秒 | Weblog
「ダブルのスーツの持ち主を探しています」――仕事をしていたら、そんな件名のメールが届いているのに気づいた。スパムかと思ったのだが、よく読むと、前の職場でよくしていただいていた総務の方からのものだった。なんでも、ロッカーにずっと放置されていたスーツが発見され、持ち主を探していたところ、そのスーツにO.Kojima(つまり、私)というイニシャルが刺繍されていたので、もしや(というかまず間違いなく)私のものではないかということで、わざわざ連絡してきてくれたのだった。お礼をいい、まだその職場に在籍している親しい先輩(美しき通訳者Tさん)の預かりという形で、しばらくロッカーを使わせてもらうことにした。次に彼女と飲みにいくときに、そのアルマーニ(というのは嘘)を持ってきてもらうことにしたのだ。おそらくそのままゴミ箱に捨ててもかまわないような代物だったにもかかわらず、わざわざ連絡してくれるなんて、なんていい方たちなのでしょう。あらためて、そんな心優しき人たちに恵まれていたことに感謝。実は自分がスーツを置き去りにしていたことにも気づいていなかったし、それがどのスーツかということもよく覚えていないのだけれど、ともかく人生、何があるかわからない。というか、無くしてしまったものは、日々に疎しということか。

ときを同じくして、ある翻訳仲間が東京を去ることになったので、そのお別れ会をやる、という連絡が入った。翻訳に対してものすごい情熱を持っていた彼女は、もともと体があまり丈夫ではなかったのだけど、それでもいつも、とても頑張っていた。強い気持ちを持っていた。僕はリーダーとして彼女になるべく無理をさせまいと思っていたのだけど、結果的にいろんな負担をかけてしまったことも多々あった。今となっては懐かしい思い出ではあるけど、当時は彼女含めチーム全員、相当大変なことも何度も経験した(大変なことになってしまったのは、僕の責任が大きいのだけど)。ともかく、みんな一生懸命だった。なぜあそこまで必死になれたのかというくらいに、頑張っていた。頑張りすぎた先に、何があるのかを知ることもなく、ただひたすらに頑張っていた。お別れ会では、そんな積もる思い出話の一つでもできればいいと思う。

翻訳とは、訳すことである。だけど、大きく言えば、それは読むことであるとも思う。読むことがまずあって、そこから訳すことが生まれる。そして読む対象は、訳される対象のテクストだけではない。分母が1のところから生まれてくる翻訳より、10から生まれてくる翻訳の方がいい。「書く」ように訳すことが望ましいことなのだとすれば、本を書く人が巻末の参考文献リストに書物の名前をリストするように、訳者も同じく訳出のための参考文献リストを列挙できるくらいたくさんの関連書籍を読み込むことが望ましいのだ。時間の制約はかなりあるにしても、できればそのような意図の下に翻訳をしてみたい、などと考えている。