尾崎太左衛門は吉賀地方の史跡や名勝などを調べ「吉賀記」という歴史書を残す。
太左衛門は元文5(1740)年に広石の獅子屋敷で生まれた。読書が好きで、
書道や数学にも秀でており地域の人々の信望が厚く、23歳の若さで宝歴13(1763)
年に有飯の庄屋となった。以後寛政4(1792)年には福川の庄屋となり寛政11(1766)
年には田丸の庄屋となる。文2(1805)年に退くまで43年間の長きにわたっり庄屋をつとめ、地域
住民の信望の厚い人であった。吉賀記は田丸の庄屋を勤めていた頃に書かれたものである。文化9(1812)
年に72歳で亡くなった。「尾崎太左衛門」が「吉賀記」を書いてから10年あまり後の文政4(1821)年
に渡辺源宝が補筆した。渡辺源宝は渡辺龍左衛門とも呼び、六日市新宮神社の宮司で末岡淡路信英の次男として
生まれ、12歳の時に津和野藩士渡辺喜右衛門の養子となり、16歳から藩につかえて吉賀下領や横田、青原などの代官
をつとめた。「吉賀記」の補筆は青原時代に行ったのである。さらに現在私達が見ることのできる復刻版「吉賀記」は
元七日市村助役砂原岩吉氏が書き写しものを昭和56年(1981)年に装丁して出版したものである。また昭和51年
(1976)年に国語分に訳した「吉賀記」が六日市町文化財審議会によって出版されている。
太左衛門は元文5(1740)年に広石の獅子屋敷で生まれた。読書が好きで、
書道や数学にも秀でており地域の人々の信望が厚く、23歳の若さで宝歴13(1763)
年に有飯の庄屋となった。以後寛政4(1792)年には福川の庄屋となり寛政11(1766)
年には田丸の庄屋となる。文2(1805)年に退くまで43年間の長きにわたっり庄屋をつとめ、地域
住民の信望の厚い人であった。吉賀記は田丸の庄屋を勤めていた頃に書かれたものである。文化9(1812)
年に72歳で亡くなった。「尾崎太左衛門」が「吉賀記」を書いてから10年あまり後の文政4(1821)年
に渡辺源宝が補筆した。渡辺源宝は渡辺龍左衛門とも呼び、六日市新宮神社の宮司で末岡淡路信英の次男として
生まれ、12歳の時に津和野藩士渡辺喜右衛門の養子となり、16歳から藩につかえて吉賀下領や横田、青原などの代官
をつとめた。「吉賀記」の補筆は青原時代に行ったのである。さらに現在私達が見ることのできる復刻版「吉賀記」は
元七日市村助役砂原岩吉氏が書き写しものを昭和56年(1981)年に装丁して出版したものである。また昭和51年
(1976)年に国語分に訳した「吉賀記」が六日市町文化財審議会によって出版されている。