おはようございます。ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
「放てば手に満てり」。私の大好きな言葉です。
道元禅師の言葉らしいのですが、私は原典で確認していません。
もうすでにこの「私の好きな言葉」のカテゴリーで書いていたとばかり思っていたのですが、書いていないことがわかりました。
昨日のタイトルの「8割捨てること」から連想しました。
「放てば手に満てり」の意味は、あなたが何かに執着していて手放すまいとしているが、そのもの ― 人であり、物であり、他の何かであるかもしれない ― を手放したとき、そのものを失うが、他に満ち満ちている何かに気づく、というように私は受け止めています。
「放てば手に満てり」は、私の35歳の時のターニング・ポイントだったとき、私の大きな支えとなってくれました。
このいきさつについては、月刊『致知』(致知出版社)2010年9月号の「致知随想」欄に岩井俊憲の「放てば満てり」の文章が掲載され、その文章がそのままヒューマン・ギルドのホームページの トピックス欄 にあります。
私がヒューマン・ギルドを設立する前の、いわば「ヒューマン・ギルドの原点」とも言うべき内容です。
是非ご覧ください。
◎ニュースレター2011年1月号より「職場に活力、家庭に愛、自分に勇気」も昨日トピックス欄にアップしました。
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放てば満てりの方がリズムが良いような気もします。
私も、これは好きなことばで、岩井先生に
教えて頂き、とても、ラッキーだったと思っています。
私も、人生を(ほぼ)「放った」ことがあるのですが、
そのとき、何だか、むちゃくちゃ楽になった感じがしました。
そのとき、「ああ、これかもな」みたいな風に思えたのは、
この言葉を知っていたからだったと思います。
まあ、完全に放ったわけではないので、まだまだ、俗欲
が大量に残っているところが痛いのですが(^_^;)。
早い時間のコメントありがとうございました。
私は、「放てば満てり」とよく言っていましたね。
正しくは、「放てば手に満てり」のようです。
それにしても手放した後に残る俗欲がなんともいえない魅力を発揮しますね。
道元禅師の「正法眼蔵」に書かれている言葉ですね。
山折哲雄先生の「道元(清水書院)」をみて調べてみます。
私は道元禅師の「正法眼蔵」の注解書しか読んでいなくて、そこにはありませんでした。
調べていただけると助かります。
ありがとうございます。
[原文]
諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。
『正法眼蔵』第一巻「弁道話」
違っていたら済みません。
「放てば手に満てり」の出典をお調べいただきありがとうございました。
大変参考になりました。
道元禅師で間違いなかったのですね。