先日、伊豆山神社で「源実朝を偲ぶ仲秋の名月伊豆山歌会」があった。たまたま来客の方から投稿のお誘いがあったので、急遽短歌を作り二首投稿した。そのうちの一首
クレオパトラの湯浴み見て来た十五夜の月ぞわれらの部屋を覗きぬ
が、選者である大森靜佳先生から天位をいただいた。私の短歌は置いておくとして、靜佳先生からいただいた色紙の短歌の解読が難しい。てのひら(手の平、掌)に深さなどないし、「それを知るための一生」も意味不明。「月に向って泳ぐ者なし」もロケットに乗ったとしても、水もないから泳げるはずもなく当たりまえ過ぎる。しかし、そう断定してしまっては話にならない。そこで、深読みが必要になる。
さて、一生をかけて知らねばならないことが「掌の深さ」なのであろう。これは、哲学的命題かもしれない。例えば「私とは何か」「私は何をするために生まれて来たのか」「神仏は、存在するか」「愛とは何か」「美とは何か」「何故人間は戦争をするのか」等々、人によって他にも様々な命題があるだろう。
最後の七七に突然「月に向って泳ぐ者なし」とあるわけだが、作者はこれを肯定的かそれとも否定的に捉えているのか、は不明である。前の五七五は、自分のこと。後の七七は、他者、社会のことではないのか。悲嘆といえば大袈裟だが、否定的に見ていると考えて良いだろう。月へ泳ぐような実に困難なこと、例えば 先の哲学的命題も含めて「核兵器をなくす」「戦争をなくす」「平和裏に社会を変革する」いずれにしても、作者が人類をそして社会を嘆いている、と考えるのはどうだろうか。