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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 19

2024年02月21日 19時55分01秒 | 甲越軍記
山本勘助の事

山本勘助という者がいる、その祖の地を訪ねれば、山本九郎義経の末裔で、代々尾張国に住み、後に三河国に移り住み、勘助まで五代が牛窪に住んだ。
勘助は幼き頃から剣術を好み、諸師に習ってその奥義を得て、眼流という剣術を深く尊び、諸国の豪傑と何度も試合をして負けることが無かった。

そのため方々で恨みを買い、旅にあれば道々で待ち伏せして槍刀で襲い掛かり、また闇夜に歩けば徒党を組んで襲い掛かってくる。
それを早業で幾度となく切り抜けたが、負うた傷は多くあり、今や左の手の指3本欠け、右目は突きつぶされ、脚は薙ぎられて片足短く歩くも不自由である

その後はひたすら軍法に心を寄せて師を求め、築城の縄張りを工夫し、孫呉の妙術を熟学して隊伍練兵の道を自ら発明した。
しかし仕官をする気は見えず、国々の諸侯がその名声を聞いて出仕を促すけれど頑として断り続けた。
一日中、農業に明け暮れて、誰にも会わず、隠者のような暮らしをして年月をすごした。

天文二年も暮れまじかになり、大雪によって庵への道も雪に埋もれてただ白銀の広野となった。
霜月17日に近郷の在民どもが来て「今年は滅多にない大雪だで山道の雪に難儀する鹿、猪猟を共にするべ」との誘いに乗り「気分転換によかろう」と不自由な足ながら猪槍をもって雪の道を上っていった。
剛健な郷民だけが脚絆に雪靴を履き、山中に分け入り、谷間を渡り、木陰を探り雪の中を突いて鹿や猪を突いた
やがて枯れたツツジの中から一匹の大猪あらわれ歳を経た六足物を狩りだした

大猪といえ、その姿は牛のようで鼻嵐にて大雪を吹き払い。牙を鳴らして走り回って郷民を威嚇する
みな怖気づいて誰一人、大猪に立ち向かう者がいない、その時、勘助は尻込みする郷民の間から猪槍を左手三本足りぬ指、親指と小指二本で槍の柄を支え、右手で操って、繰り出す
大猪もさすがのもので牙をふるい隙あらば刺し殺そうと鼻息も荒い
勘助は深い雪をものともせず、大猪の首元、怒れる剛毛の隙を狙って突き刺そうと近づいては離れ、離れては近づく
大猪の周りを神業の如く走り回ること数度、とても足の不自由な人間とは思えぬ早業。ついには大声を発して大猪の首筋に一槍の痛撃を与えた。
大猪、ますます怒り槍の柄を折らんと騒ぎ立てたが、それに構わず抜いては指して弱った頃合いを見ると、一気に投げ飛ばした。
そこへ今まで近づくこともできなかった郷民が一斉に襲い掛かり、さしもの大猪も血潮に染まって息絶えた。
「これで越冬の糧を得た」と郷民は喜び、家路についた。途中より皆と別れて庵に向かう勘助、後より人の気配を感じて振り向けば、そこには15.6の童と50ばかりの老入道が居た、旅姿なれども品格の良さが際立っている。




藤原氏の始まりを調べてみた

2024年02月21日 08時31分36秒 | 日本史
 平安時代については、おぼろげなイメージしかなく、いったいいつからいつまでで、どんな権力者が居たかも知らず、天皇が絶対的な権力を行使していると思っていた。
そして時代は年代の通り「平安な時代」と捕らえていたが、たぶん平安京からとったのではないだろうか。

学校で習ったのは「奈良をなくして(794)平安遷都」だったが最近聞いたのは「泣くよ(794)ウグイス平安京」だった。
でも奈良(平城京)を無くして平安京の方が筋道は通っている。

平安京を意識するまでは江戸時代(約260年)が一番長い平和な時代と思っていたが、実際は平安時代で約390年続いた。
だが藤原氏の繁栄は更に遡り奈良時代の平城京、更に飛鳥時代までさかのぼる
奈良時代を加えれば約470年、藤原鎌足から数えれば540年ほど天皇と貴族が栄えた時代が続いたことになり、これは朝鮮李王朝の520年よりも長い。

藤原氏の絶頂期平安時代は摂政関白、大臣同士の権力争いはあったがほとんどが主流の藤原四家の藤原家同士の争いであり、それは裏工作の連続で、内戦状態まで発展することはほとんどなかった、朝鮮王朝の権力争いに似ていて、その様子は「光る君へ」によく描かれている。
今週の回でも右大臣藤原兼家が道長に「人殺しはいかんぞ、あれは身分賤しき者たちがすることだ」と言ったように、彼らは武士ではなく貴族だったからである。 藤原氏は武士に似て武士でない、平安時代以前には武士はなく、平安時代に入って荘園制が取り入れられて初めて、武士の原型が主に東国で芽生えてくる。

以下の多くは古事記、日本書紀参照

藤原氏の始まりを説明するには、三十三代推古天皇から始めるのが良い
592年に即位された女性初の天皇である、
第三十代敏達天皇の後添えの皇后であった(結婚前は額田部皇女)
その頃は大臣蘇我馬子が権力を握っていて、もう一方の権力者、物部守屋と互いに皇子を頂いての戦になった
蘇我氏は聖徳太子らを旗印に守屋を破って絶対権力を握り、崇峻天皇と対立して天皇を殺害した

推古天皇は父が二十九代欽明天皇で、三十一代用明天皇の妹、崇峻天皇の異母姉、大臣の蘇我稲目の姪というサラブレッド皇女であった。
推古天皇の御代では聖徳太子がその才能と手腕を発揮して天皇を助けた。
また蘇我馬子も太子同様に働いたにちがいない。
この時代は朝鮮半島や大陸との往来が盛んで、朝鮮半島の南端には日本の拠点ともいえる任那があり、ここを巡って新羅と何度も戦を行った
また小野妹子を団長とした遣隋使も送っていた。
聖徳太子、蘇我馬子と朝廷を担う巨頭二人が相次いで亡くなると、推古天皇も後継者を決めずに崩御されたため、天皇の継承者は定まらず大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)にゆだねられた、そして田村皇子を即位させて舒明天皇が誕生したが、政治は蘇我馬子、蘇我入鹿の父子によって独占された。
舒明天皇は宝皇女を皇后として、葛城皇子(中大兄皇子)、大海人皇子を産み、蘇我馬子の娘との間にも古人大兄皇子が生まれた。
いずれも皇位継承権を持つ皇子であるので、朝廷内での継承争いがおこるのは必死であった。

舒明天皇が崩御されると、以前から考えていたのか皇子たちの争いを避けるためなのか皇后は自ら皇極天皇となって即位した。
女性として二人目の天皇である。
三年の後、政治をわがものとしてふるまう蘇我入鹿とその父蝦夷を、中大兄皇子、中臣鎌足が主導して討った、蝦夷の甥にあたる古人大兄皇子も出家して吉野に赴いた
皇極天皇は退位して中大兄皇子を即位させようとしたが、皇子は天皇の弟である軽皇子を推薦して、盟友の中臣鎌足と共に新天皇を支えることとなった。
軽皇子は三十六代孝謙天皇となった
この功労により中臣鎌足は「藤原」の姓を賜り、藤原鎌足となり内大臣に任命された。 ここが藤原の始まりである。
ここまでが平安初期の荒々しい権力争いと藤原氏が誕生するまでの流れである。
「光る君へ」の雅なる平安の黄金時代は、ここから300年後である、ゆえに藤原氏も300年以上栄えたのである。